20260920エゼキエルの妻の死(エゼキエル24:16-19)

20260920韓国語礼拝

聖書:エゼキエル24:16-19

題目:エゼキエルの妻の死

賛美:250、260

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

「人の子よ、見よ、わたしは、にわかにあなたの目の喜ぶ者を取り去る。嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない。 声をたてずに嘆け。死人のために嘆き悲しむな。ずきんをかぶり、足にくつをはけ。口をおおうな。嘆きのパンを食べるな」。 朝のうちに、わたしは人々に語ったが、夕べには、わたしの妻は死んだ。翌朝わたしは命じられたようにした。 人々はわたしに言った、「あなたがするこの事は、われわれになんの関係があるのか、それをわれわれに告げてはくれまいか」。

‭‭エゼキエル書‬ ‭24‬:‭16‬-‭19‬ 口語訳‬

1。星野富弘(1946−2024)さんを主に導いたもの

 星野富弘さんは口に筆を加えて、文字や絵を書く詩人です。小学1年生の時から器械体操を学び、24歳で中学校の体育教師となりました。そして器械体操の指導を子どもたちに始めました。ところがわずか2ヶ月後に、宙返りに失敗し、頭から落ちて全身不随となりました。自慢の健康的な体は失われ、人生を全て失ったように感じました。

 生きる希望を失っていた星野さんですが、家族や友達からの励ましを通して、生きることに目を向け始めるようになりました。そして26歳の時から、手紙を書くために口に筆を加えて字を書く練習を始め、絵も描き始めるようなりました。その後、体は不自由なままですが33歳で退院し、34歳の時には『愛、深き淵より。』という本を出版しています。

 入院中のある日、星野さんは知人が置いていった聖書を読みました。すると「重荷を背負って苦労している者は私の元に来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)という言葉が目に止まりました。高校1年世の時、家の裏山で、白い十字架の小さなお墓を見たことを思い出しました。それは、生まれつき障害を持って生まれ、わずか8ヶ月で亡くなった子供のお墓でした。そこにも同じ言葉が書いてあったのです。星野さんはあらかじめ自分にこの言葉を示した神様がいるのかもしれないと考えるようになり、4年後、病室で洗礼を受けました。

 それから長い年月が経った後、『愛、深き淵より。』を読んだ神部夫妻が星野さんを尋ねてきました。その本に書かれている白い十字架を建てたのが神部夫妻であり、自分たちの建てたお墓の御言葉で星野さんが回心したことを知り、尋ねてきたのです。神部夫妻は、子供のお墓を見た人がキリストを信じることを願い、聖書の言葉をお墓に書き残したのでした。そのお墓をきっかけに星野さんは救われました。しかしそれだけでなく、その事実を通して、子供を失った神部夫妻の心も慰めを受けたのでした。死というのはつらく悲しいものですが、その死を通しても人を救いに導く主の御業には驚かされます。

2。本文解説

①裁きの日:ゼデキヤの治世第9年10月10日(1−2)

 これまでエゼキエルは、エルサレムに裁きがやってくること、そしてその裁きが不当なものではなく、正当な理由があることを、様々な角度から、バビロンの地のイスラエルの民に伝えて来ました。それは偽預言者たちによって「エルサレムは大丈夫だ、すぐ帰れる」という偽りの希望が広がっていたためです。そして、これまでは裁きの日の予告でしたが、24章ではとうとう裁きの日が始まったことを伝えています。現代の暦に換算すると、紀元前588年1月15日とされています。バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを攻めてきた日です。電話もメールもないその時代に、エゼキエルは神様から教えられ、人々に伝えました。この日から紀元前586年までの2年半ほどかけて、エルサレムは滅んでいくことになります。

②煮え立つ鍋(3−5)

 エゼキエル11:3に「これ(エルサレム)は鍋であり、我々は肉である」という言葉があります。ユダヤ人は、エルサレムを鍋に例えていました。鍋に守られた肉のように、私たちはエルサレムに守られているから大丈夫、と考えていたのです。確かにエルサレムの東、西、南は深い谷があり、北側からしか攻め上がってくることができない地形になっています。エルサレムは高地にある天然の要塞なのです。実際、紀元前701年にアッシリアの王センナケリブが攻撃しました、エルサレムを攻め落とすことができませんでした。人々は神様に頼らず、エルサレムを頼っていたのです。

 そんな人々の考えを逆転させるため、神様はエゼキエルを通して、確かにあなたたちは鍋の中にいるが、それはあなた達を守る鍋ではなく、火にかけられる鍋だ」と教えているのです。火は迫って来た裁きであり、バビロンによる包囲を表しています。難攻不落の城塞都市エルサレムへの安心感を神様は否定しました。

③錆びた鍋(6−14)

 エゼキエル24:21に「力の誇り、目の喜び、心の望みであるわが聖所」という言葉があります。人々は神様が臨在する神殿があるからエルサレムは聖なる都であり、安全だと考えていました。神様ではなく、神殿があるから大丈夫という間違った考えです。

 そんな人々の考えを逆転させるために、神様は「錆びた鍋」だと表現しています。確かに神殿はあっても、神様の臨在とは程遠い汚れた血の場所となっているのがエルサレムだということです。問題は単なる政治的失敗ではなく、偶像崇拝や暴力、不正、神に背くことの積み重ねなのです。それによって溜まった錆は、洗っただけではとれないほどになっています。だから多くの錆が取れるように火にかける必要があるのです。神様の臨在する聖なる都エルサレムへの安心感を神様は否定しました。

④妻の死(15−27)

 そして神様は衝撃的な預言をエゼキエルに伝えます。「私はにわかにあなたの目の喜ぶ者を取り去る。嘆いてはならない。泣いてはならない。涙を流してはならない」(24:16)と。最愛の妻が突然亡くなるが、葬儀をしたり、悲しみを表現したりしてはいけない、と意味です。エゼキエルは25歳でバビロンに連れてこられ、30歳で召命を受けました。そして35歳のこの日まで預言者として忠実に神様に仕えてきました。そして文脈から判断すると、夫婦仲良くやってきたと考えられます。それなのにそんな妻を神様が取り去るというのです。エゼキエルにとっては非常につらい場面です。しかし、それを聞いたエゼキエルは、朝に人々に語り、その夜に妻を亡くしました。そして翌朝、とてもつらいはずなのに、エゼキエルは神様が命じられた通りに、悲しみを表現しませんでした。自分の思いを表現するのではなく、預言者として神様の思いを表現することを選びました。

 何のために妻を失い、何のために悲しみの表現を禁止される必要があったのでしょうか。神様の目的は、妻を失ったエゼキエルの姿を通して、これから神殿を失うイスラエルの姿を人々に教えるためでした。将来人々が経験することになる「失う悲しみ」を、エゼキエルに先に経験させる必要があったのです。そしてその「失う悲しみ」は、エゼキエルが表現できなかったように、イスラエルの民も、通常の方法で悲しむことさえできない状況に陥るというものです。これは、単に預言通りエルサレムの崩壊が始まったというお知らせではありません。人々の心をエルサレムから神様に向けるための重要な使命でした。

 ここで注意したいのは、エゼキエルの妻が死んだのは、彼女が悪い人だったからではないということです。また、エゼキエルが神様より妻を愛していたから、神様が妻を取り除いたということでもありません。まして神様が人の命を軽く扱っているわけでもありません。神様は、滅びゆくイスラエルの人々の心が神様に向かうことを願い、ご自分の僕であるエゼキエルの家族を用いたのです。そしてエゼキエルはそれを受け入れました。

 そして、神様は決して冷徹なお方ではありません。愛があります。従わない大勢の民の中で、エゼキエルはとても忠実な僕です。神様が大切にしないはずがありません。そんなエゼキエルの妻を取り去るのですから、神様も心が痛んだはずです。そして、このような重い役目をエゼキエルだからこそ任せることができたと考えられます。私たちは失うことばかりに目をとらわれて、私たちを救おうとする神の愛を見失わないようにしましょう。

 その結果、人々は、悲しみを表現しないエゼキエルを見て、「あなたがしていることは、われわれにとってどういう意味なのか」と尋ねます。エゼキエルの妻の死を通して、これまで偽預言者と自分に向かっていた人々の視線が、エゼキエルと神様に向かうようになったのです。残念ながら、エルサレム崩壊後も、多くの人々が「聞く」けれど「従わない」という霊的状態でした。そのため、エゼキエルの妻の死を通して伝えられたメッセージが大きな成果を上げたとは言えません。しかし、エゼキエルの家族の犠牲を通して現れた神様の愛を私たちは忘れてはいけないのではないでしょうか。

3。適用

①犠牲の後ろにある愛に気づいてください。

 エゼキエルの妻の死についての詳細を、聖書は教えてくれません。エゼキエルは預言について妻と話したのか、妻自身も自ら死を受け入れたのか、わかりません。はっきりしているのはエゼキエルの妻の死は、人々を救うための「しるし」となるための犠牲になったということです。エゼキエル自身についても、どんな思いだったか聖書は教えてくれません。確かなのは最愛の妻の死を受け入れて神様に従ったということです。そしてエゼキエルの家族が払った犠牲を通してイスラエルを愛する神様の愛が現れました。そこには神様の望みを自分の望みとして受け入れたエゼキエルの姿があります。

 そしてイエスもそうです。イエスはそれ以上に自分の命そのものを犠牲にして、私たちに神様の愛と救いを示しました。そして自分の死を通して人々の罪が赦され、神様に戻ってくることを望みました。神様の望みを自分の望みとして受け入れたイエスの姿があります。

 私たちはこのような死を聖書に見る時、神様を冷酷で残忍な方だと思います。自分はエゼキエルの妻のように、イエスのようにはなりたくないと考えます。しかし、単に犠牲=悪と決めつけるのではなく、その後ろに見える愛も見てください。多くのものを犠牲にして子供を産み、育てる母親を見て、人々はそんなふうに自分を犠牲にしたくないと思います。しかし、それだけで終わらないでください。母親の犠牲の後ろに見える愛を見る時、子供たちはその愛で心が満たされ平安を得ます。犠牲を伴う愛は無駄に終わるのではなく人を生かします。エゼキエルの家庭が払った犠牲は大きいものでしたが、その後ろには大きな神様の愛があるのです。そしてその愛は私たちにも与えられていることを忘れないでください。

②その愛に応えて生きる者になりましょう。

 エゼキエルの妻の死を通して人々は神様の言葉を求めました。しかし、多くのものが神様のもとに戻るところまで行きませんでした。神様もエゼキエルもとても悲しかったのではないでしょうか。私たちは同じ道を辿るのではなく、犠牲を通して見える神様の愛に応えて生きるものになれば幸いです。

 私の妻は、牧師である私と結婚して韓国から日本に来ました。牧師の妻として生きる人生、慣れ親しんだ家族や友達、文化や言語を離れて外国で生きる人生、日本人みたいな中身の韓国人と夫婦として暮らす人生が一度にやってきました。もちろん無理矢理結婚したわけでもいやいや連れてこられたわけでもなく、自分で決断した結果です。しかし、最初から好きで望んでやってきたわけではありません。時々、「韓国で暮らしていたなら経験することもなかった苦労をたくさんかけているな」と感じ、申し訳ない気持ちになります。特にエゼキエルの妻の死を通して思ったのは、好きで牧師の道を進んだ私と違い、牧師の夫を持ってしまったために、成り行きでなってしまう牧師の妻は、本当に犠牲と苦労の多い立場だと感じました。

 どうか皆さん、自分のために犠牲を払っている妻や夫、父や母がいれば、その後ろにある愛を見てあげてください。そしてその愛に応えてあげてください。私も妻とケンカすれば、お互いに感情的になり、悪いところばかり見てしまいます。しかし悪いところばかり見るのはやめて、ここまで犠牲を払ってついてきてくれた妻を思うようにしています。そして謝罪するようにしています。3年前、私はイエスの十字架の犠牲の上にある愛を知り、牧師になりました。その時、祝福を求めるのではなく、その愛に応えて残りの人生を生きる決意をしました。しかし、よく忘れて自分が犠牲になっていることに腹を立てて「不公平だ」と思ってしまいます。どうか皆さん、犠牲を悪だと思わないでください。愛のある犠牲は、人を主に立ち返らせる道となります。

4。まとめ

 エゼキエルの妻の死という大きな犠牲を通して、神様はイスラエルの人々に、ご自分へ立ち返るように語られました。私たちは犠牲そのものだけを見るのではなく、その後ろにある神様の愛を見るようにしましょう。愛のある犠牲は人を神様の元に導きます。特に、私たちのために十字架で命を捨ててくださったイエスの愛を覚え、その愛に応える人生を歩むことができるよう皆様を祝福します。

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