20261011「私」ではなく「神」がなさる(使徒15:1-4)
20261011日本語礼拝
聖書:使徒15:1-4
題目:「私」ではなく「神」がなさる
賛美:621、542、545
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた。 そこで、パウロやバルナバと彼らとの間に、少なからぬ紛糾と争論とが生じたので、パウロ、バルナバそのほか数人の者がエルサレムに上り、使徒たちや長老たちと、この問題について協議することになった。 彼らは教会の人々に見送られ、ピニケ、サマリヤをとおって、道すがら、異邦人たちの改宗の模様をくわしく説明し、すべての兄弟たちを大いに喜ばせた。 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たち、長老たちに迎えられて、神が彼らと共にいてなされたことを、ことごとく報告した。」
使徒行伝 15:1-4 口語訳
1。Chick-fil-A
アメリカに行くとチックフレイというハンバーガー屋さんがあります。2026年現在、アメリカ国内で約3000店舗ありますが、このお店には1946年の開業当初の第1号店から引き継がれている変わった伝統があります。それは、日曜日が休業日だということです。創業者のトルーエット・キャシーは「従業員が休み、家族と過ごし、礼拝するための日」として日曜日を空けたと説明しています。ある時、キャシーは競争相手から、日曜日も営業すれば20%多く売れると言われました。しかしキャシーは、日曜日を休むことで売り上げを失っているとは考えず、むしろ日曜日を休むことで祝福されていると考えました。そして「日曜日に店を閉めることは、神を敬う私たちの方法だ」と答えています。チックフレイの店舗数はマクドナルドの4分の1以下ですが、1店舗あたりの売り上げは約2倍です。6日間の営業で、競合他社の7日間の売り上げを上回る祝福が与えられたのです。
ここで重要なのは、「神様を第一にしたから儲かった」ではなく、「儲かる可能性があっても、神様を第一にすることを変えなかった」ということです。チックフレイの企業目的には「託された全てのものを忠実に管理することによって神に栄光を帰す」とあります。会社がうまくいってもいかなくても、「私」ではなく「神様」がされたことであり、神様のおかげだと考えているのです。この考えは教会では特に重要です。今日のお話は、49年頃に行われたエルサレム会議についてですが、このお話から、教会を作って行くのは誰で、私達は教会で何をしているのか、見ていきたいと思います。
2。本文解説
①会議に至る背景
第一回伝道旅行からアンテオケ教会に帰ってきたパウロとバルナバは、「神が彼らと共にいてして下さった数々のこと、また信仰の門を異邦人に開いて下さったことなどを報告した」(14:27)とあります。そして、しばらくアンテオケ教会の聖徒たちと過ごしました。しかしある時、エルサレムからやってきたユダヤ主義者たちが、「モーセの慣例に従って割礼を受けないと救われない」と主張し始めました。ギリシャ人やローマ人のままではなく、ユダヤ人になってこそ救われるという意味です。これは異邦人が異邦人のまま、恵みよって救われるのを見てきたパウロたちの主張と異なるため、論争になりました。そして、エルサレムに行って話をすることになりました。
②エルサレム会議
エルサレムに着くと、パウロとバルナバは使徒たちや長老たちに迎えられ、「神が彼らと共にいてなされたことを、ことごとく報告した」(15:4)とあります。それに対して、これまで同じように異邦人の救いを見てきたペテロは、「…神は、聖霊を…彼らにも賜って、彼らに対してあかしをなし、…彼らの心をきよめ、…なんのわけへだてもなさらなかった」(15:8−9)と述べています。救いの条件に、割礼などの律法遵守を加えてはいけないというパウロたちの主張を支持したのです。そしてパウロとバルナバは「神が行われた数々のしるしと奇跡のこと」(15:12)を説明したとあります。それに対して、イエスの弟であるヤコブは「神が初めに異邦人たちを顧みて、その中から御名を負う民を選び出された」(15:14)ことが預言者たちの言葉と一致している(15:15)ことを話しました。アモス9:11−12を引用しながら、パウロとバルナバの意見を支持したのです。そして、神様を受け入れた異邦人にモーセの律法を強要しないことを決めたのです。
③4つの決定事項
律法の強要はしないと決めましたが、偶像に供えた物、血、絞め殺した物、不品行の4つは避けるようにという決まりを作りました。これには2つの意味があります。1つ目はユダヤ人キリスト者との交わりへの配慮です。救いの条件に対する妥協ではありません。使徒15:21には、モーセの律法が安息日ごとに会堂で読まれているとあります。そのため、4つの規定は、律法に親しんできたユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が、同じ教会で交わり、食事を共にするための配慮だったと解釈されます。特に血や絞め殺した動物の肉は、ユダヤ人の食習慣との関係が深いものでした。血は生命を表し、生命は神様のものだから、血を飲むことはノアの時代から禁止されていました。そして絞め殺した動物の肉は、屠殺する場合と違って血が残ってしまうからです。
そして2つ目は異邦人キリスト者自身が偶像礼拝や不道徳から離れるためです。偶像礼拝と不品行は、ギリシャ・ローマの世界において、強く結びついていました。そのため、異邦人キリスト者自身の信仰生活を守るための決定です。この決定には、異邦人が以前の宗教的・道徳的習慣から離れ、神の民として生きるという意味もあったと考えられます。つまり、これら4つを避けるという決定事項は、隣人への配慮であり、自分を守るため知恵なのです。これらは私たちの救いを揺るがすものではありません。
ここで気になるのは、これらの取り決めが現代の私たちにも適用されるのかということです。私たちは血を食べてもいいのでしょうか?また、他にも疑問が出てきます。結婚、安息日、十分の一献金という制度を守るべきか?タトゥーやお酒、タバコはしてもいいか?など様々出てきます。ここで一つずつ議論することはできませんが、キリスト者の自由は「何をしてもよい」という自由ではなく、救われた者として神と隣人を愛し、聖書の教えに従って生きる自由だということは覚えて下さい。まず大切なのはキリストの救いに預かることです。救われ、そして神様の喜びが自分の喜びに変わっていく時、私たちは、自ら正しい選択をすることができるようになります。
3。適用
①教会を作るのは「私」ではなく「神」である。
パウロとバルナバの主張は一貫して「神がなさった」ということです。そして12使徒のペテロもイエスの兄弟ヤコブも「神がなさった」ことを話ししています。彼らは「神様」がしたことを話し、「自分」がしたことは話していません。あくまで「神様」がしたことを「自分」が目撃したり、御言葉から知ったことを伝えています。ここに教会の正しい姿があります。教会で語られるべきは「私がしたこと」ではなく「神様がしたこと」なのです。
私達は時々、「私は信仰して、こんなことができるようになった」「私はイエスの教えを聞いて、教会のためにこんなことをした」「私は祈りを通して、こんなにも願いを叶えた」と誇ってしまうことがあります。ある教会では「願いが叶えられる祈祷会」を売りにして人々を集めようとしていました。しかしそれは、正しくありません。「神様が私たちを通してこんなことをした」と神様を証しすることが教会のあるべき姿です。
イエスも自分が教会を立てると言っています。
「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」
マタイによる福音書 16:18 口語訳
教会を立てるのはペテロではなくイエスです。教会の主語は「私」ではなく「神様」なのです。私達はペテロのように神様の計画への参加者であり、教会は神様の御業を表す場所なのです。
②教会は神様の栄光が現れるためのパイプである。
人々は、教会の転換期だ、危機だと騒ぎます。そして、「神様のために私ができることは何か?神様のために少しでも奉仕したい!」と考えます。それは素晴らしい考えです。しかし、そこから「私がしっかりしないと教会が潰れる」と思うようになれば、それは誤解です。一見、責任感があるようにも見えますが、神様は私たちの助けを必要とするそんな弱い神様ではありません。私たちの神様は全能であり、石ころからでもアブラハムを起こすことができるお方です。私たちの手助けで支えられたり、潰れるようなものは、教会とは言えません。
牧師も人間ですから、もっと献金が集まらないと教会がやっていけないと思う時があります。しかしそれは間違っています。教会を立てたり、運営していくために私達がお金を捻り出さないといけない教会だというのなら、そんな教会はやめた方がいいです。その教会は神様が立てる教会ではなく、人間が立てる教会のような別の何かです。そのような教会は神様には何の役にも立ちません。神様はご自分が必要とされるものは全て備えておられるお方です。私達はその神様の前で、その御業に参加させていただく存在です。私達が神様の言葉に従って行きさえすれば、神様は教会を立て、ご自分の栄光を表されるのです。教会で献金を捧げるのは私達が教会を作っていくためではありません。神様に従うためであり、感謝するために捧げているのです。
説教も同じです。牧師の説教を通して人々が信仰を持ちます。しかし、それは説教の力ではありません。神様が説教を用いて聞いている人の心に、信仰を起こしてくださるのです。たとえ牧師が知恵と知識を振り絞っていくら語っても、「神がなさる」という信仰がなければ、講演はあり得ても説教にはなり得ません。説教はそこに神様がおられてこそ成り立つものです。牧師を見る時、重要なのは話が上手いかどうかではなく、「神様」が現れているかどうかです。
祈りも同じです。祈りることで願いが叶えられます。しかし、それは祈り自体に力があるわけではありません。祈りを通して、神様が働かれているのです。私達が1000回、10000回祈ったからといって何の自慢にもなりません。働いているのは「私」ではなく「神様」だからです。たとえ何万回祈りを捧げたとしても、自分の考えを降ろして神様に合わせようという思いがなければ、意味がありません。祈りは全てを神様に委ねる心があってこそ成り立つものです。私達が神様に従う時、神様の御旨が私たちを通して表されるということを覚えてください。
4。まとめ
教会を立て、成長させているのは誰でしょうか?それは私たちではなく、神様です。私たちは自分の力や成果を誇るのではなく、神様がなさった御業を証しする者です。献金も奉仕も説教も祈りも、神様の働きに参加させていただく恵みです。自分が何かを成し遂げることよりも、神様に従うことを大切にしましょう。そして、「私」ではなく「神様」がなさる教会として、共に歩んでいきましょう。

