20261004誰を高めて生きるのか?(使徒14:18-20)📺
20261004日本語礼拝
聖書:使徒14:18-20
題目:誰を高めて生きるのか?
賛美:621、331、323
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「こう言って、ふたりは、やっとのことで、群衆が自分たちに犠牲をささげるのを、思い止まらせた。 ところが、あるユダヤ人たちはアンテオケやイコニオムから押しかけてきて、群衆を仲間に引き入れたうえ、パウロを石で打ち、死んでしまったと思って、彼を町の外に引きずり出した。 しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいる間に、彼は起きあがって町にはいって行った。そして翌日には、バルナバと一緒にデルベにむかって出かけた。」
使徒行伝 14:18-20 口語訳
1。認められたい心
皆さんはSNSを使っていますか?写真を載せたり動画を投稿したりすると「いいね」がつくことがあります。10いいね、20いいね、100いいね、と大きくなると、嬉しくなります。そしてもっと「いいね」が欲しくなります。すると、次は「もっとたくさんの人に見てもらいたい」「もっとすごい写真を載せよう」「もっと面白いことをしよう」と考えるようになります。もちろん人から褒められることは悪いことではありません。勉強を頑張ること、仕事のスキルを高めること、スポーツが上手になることも良いことです。しかし、問題は「人から認められること」が目的になってしまうことです。そうなると、自分自身ではなく、誰かもわからない「いいね」の数が自分の心を動かすようになります。すると、いつの間にか「いいね」をもらうために悪いことをしてしまうようになります。
学研の調査では2025年の小学生がなりたい職業ランキング1位が、ユーチューバーやインスタグラマーなどのネット配信者でした。ネット配信者自体が悪いわけではありませんが、「いいね」や「フォロワー」の数によって人気者になることが人生の目的になってしまうことには注意が必要です。なぜなら、人の評価は簡単に変わる不安定なものだからです。そしてなりより、クリスチャンの目的は、人に認められることではなく、神様を賛美することだからです。勉強をがんばったり、人気者になったり、自分を高めることが目標になることが悪いわけではありません。しかし、最終的な目標は神様を高めることになるべきです。自分が称賛されることは、一時的には気持ちがいいかも知れませんが、長続きしません。しかし、神様に栄光を返すことは、一時的には寂しいかも知れませんが、人からは得られない安定した平安が神様から与えられます。今日のお話では、「いいね」よりももっと大切なことがあるというお話です。
2。本文解説:ルステラでの出来事
①足の不自由な人の癒し
パウロの第一回宣教旅行のお話です。キプロス島の後、ガラテヤ州にあるピシデアのアンテオケとイコニオムで福音を宣べ伝え、ルステラまでやってきました。ルステラは小さい町で、会堂に関する記述もないことから、ユダヤ人があまりいない地域だと考えられます。しかしパウロとバルナバは諦めたりせず、福音を伝え始めました。そこで出会ったのは、生まれつき足の不自由な男の人でした。パウロは説教をしている時、この人に癒されるほどの信仰があるのを認め、「自分の足で、真っ直ぐに立ちなさい」と言いました。すると、この人は踊り上がって歩き出しました。
②パウロらを持ち上げる
ところが、この奇跡を見た人々は、パウロをヘルメス、バルナバをゼウスと勘違いしました。ギリシャ神話で、ヘルメスはメッセンジャーの役割をする神であり、ゼウスは最高神です。そして人々は、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」とルカオニヤ語で騒ぎ始めました。最初パウロ達は何が起こったのか理解できませんでしたが、雄牛数頭と花輪を持ったゼウスの祭司が郊外から出てきて、パウロ達にいけにえをささげようとしました。そこで、パウロたちは人々が自分達を神々として礼拝しようとしていることに気づきました。
③ルステラの伝説
ローマの詩人オービットは、ルステラ地方に伝わるある伝説を残しています。昔、ゼウスとヘルメス(ローマ神話ではジュピターとマーキュリー)が人間の姿をとって訪ねてきました。彼らは千の家を訪ね休息を求めましたが、誰も見知らぬ旅人である彼らに宿を提供しようとしませんでした。しかし、たった一軒だけ彼らを受け入れた家がありました。それはピレモンとバウキスという老夫婦でした。彼らは貧しく、主人も召使もいません。旅人がその小さな家に頭を下げて入った時、ピレモンはすぐに椅子を差し出し、バウキスが布をかけて休ませてあげたのです。そして質素ながらも食事を提供しました。その結果、ゼウスとヘルメスはその老夫婦のもてなしを喜び、家を神殿へと変えました。一方で、それ以外のもてなさなかった家々は全て沼に沈むという罰を受けました。このお話は、神々は、人の持っている財産や見抜く知恵ではなく、もてなしを通して人の心を見る、ということを教えています。つまり、ルステラの住民たちは、パウロたちの奇跡を見て、先祖と同じ過ちを犯してはいけないと考えたようです。
④パウロらの人間宣言
人々が礼拝しようとしたとき、パウロとバルナバは衣を裂いて、群衆の中へ飛び込んで行きました。そして、「皆さん、なぜこんな事をするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間です」と言いました。ここが今日の中心です。パウロたちは自分たちが賞賛を受けることを拒否しました。もしパウロたちが、「まあ、神様と呼ばれているけれど、福音を聞いてくれるなら、それでもいいではないか」と考えていたら、どうなったでしょうか。または、自分たちが称賛を受けていることを喜んでいたならどうなったでしょう。これらは偽りの罪であり、神様の栄光を奪う罪です。パウロは罪を避けて、賞賛を断りました。人々はパウロに注目しましたが、パウロはその視線を自分のところで終わらせませんでした。「私たちを見てください」ではなく、「このような空しいものを捨てて、生ける神に帰るように」と語りました。パウロは、人々から注目されることを拒否したのではありません。その注目を、正しい方向へ向け直したのです。これが宣教者の姿です。そしてパウロは、雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びで人々の心を満たしてくださる神について語りました。奇跡を見て人間を神にするのではなく、奇跡を通して神を見るように導いたのです。その結果、間違った礼拝は止まりました。
⑤瀕死の重体になるパウロ
パウロは正しい選択をしました。ところが新たな問題が発生しました。パウロたちに反対するユダヤ人たちが、ピシデアのアンテオケやイコニオムからやってきて、ルステラの人々を惑わし、一緒にパウロを石で打ち始めました。おそらくパウロを神を語る詐欺師だと言ったのでしょう。パウロは死んだように倒れ、町の外に引きずり出されてしまいました。その町の少ないクリスチャンたちがパウロを取り囲んでいると、パウロは起き上がって、そのままルステラの町に入って行きました。そしてその翌日には、バルナバと一緒に次の町デルベに向かって行きましたが、その後、再びルステラの町に戻って来ました。さらに、イコニオムとピシデアのアンテオケにも立ち寄って、帰っていきました。こんな大事件が起きたら、普通ならもうその町に入りたくもないし、関わりたくもなくなるでしょう。しかしパウロは入って行きました。自分を石で打った人々を恐れるのではなく、イエスキリストを信じる人々を励ますために再び戻ってきたのです。そしてキプロス島にはよらず、シリアにあるアンテオケ教会に戻って行きました。
3。適用
①自分ではなく神様を高める生き方をしよう。
神様が喜ばれる生き方は、神様に栄光を返す生き方です。最終的に神様を高める生き方がクリスチャンの生き方なのです。もちろん自分を高めることが全て悪だというわけではありません。自分を高めるために努力することは素晴らしいことです。しかし、自分を高めることが最後になることが問題なのです。言い換えれば人々の「いいね」を自分が受け取って終わることです。それは神様の栄光を奪うことになります。そのため、私たちは人々から賞賛を受ける時、注意する必要があります。だからパウロもバルナバも必死で人々の礼拝を止めました。効率的な面から言っても、もったいない気がするのもわかります。しかし、私たちは人々の視線を自分のところで終わらせてはいけないのです。
「イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。」
ヨハネによる福音書 6:15 口語訳
イエスも、神様の計画に外れた人々の称賛を拒絶しました。2匹の魚と5つのパンの奇跡を見た人々が、イエスを自分たちの王にしようとしました。人々の視線がイエスに注目しています。人々から認められるのは気持ちのいいものですし、神様の言葉を伝えるには絶好の機会になるように思います。しかしイエスはそうしませんでした。ひとりで山に入って行きました。イエスがメシアとして人々の称賛を受け入れるのは、十字架にかかるためにエルサレムに入る最後の1週間だけです。イエスはいつも人々の視線が自分のところで終わるのではなく、神様に向かうようにしていました。
これは何も牧師などの指導者だけの問題ではありません。私たちが誰かを助けたとき、「ありがとうございます」と言われるかもしれません。教会が地域の人々に親切にしたとき、「この教会は素晴らしい」と言われるかもしれません。しかし、そのときに大切なのは、「私がすごい」ではなく、「神様が恵みを与えてくださった」と示すことです。「私を見てください」ではなく、「私を通して、神様を見てください」という姿勢です。自分が「いいね」をもらって終わるのではなく、神様に「いいね」をお渡しすること、これがパウロとバルナバが持っていた姿勢であり、私たちクリスチャンが持つべき姿勢なのです。
②人からの評価に振り回されない生き方をしよう。
ルステラの人々は最初、「神々が人間の姿をとって来られた!」とパウロたちを称賛しました。しかし、その後すぐ、悪いユダヤ人たちに説得されて、パウロを石打ちにしました。ついさっきまでパウロたちに「いいね」を送っていた人々が、殺しに襲ってくるのです。人間の評価とは、このように変わります。「神だ」と言われたと思ったら、「殺せ」と言われるのです。だから、私たちが人々の評価を人生の基準にしてはいけません。人の評価は簡単にひっくり返るからです。褒められたから喜び、批判されたから落ち込む、そのような生き方はやめましょう。私たちは人々からの「いいね」では、心の平安を手に入れることはできません。
「また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。」
マタイによる福音書 11:19 口語訳
イエスは多くの人々から「いいね」ではなく「バッド」の評価をもらっていました。大食いで大酒飲みで、犯罪者の仲間だと言われました。しかしイエスは落ち込んだりしませんでした。イエスはいつも、人が認めようが、認めまいが、神様から与えられた使命のために、自分は自分の仕事をするという姿勢でした。時には、家族に頭がおかしいと思われたり、故郷の人々に殺されそうになりましたが、その心には神様から与えられた平安がありました。イエスのように使命に生きる者は、その使命を果たせるように神様が守ってくださるため、平安が与えられるのです。
③神様から与えられた使命に生きる生き方をしよう。
皆さんにお願いです。人々のからの「いいね」を求める人生はやめましょう。「いいね」で得られる平安は、人の気まぐれで簡単に失われます。ルステラの人々を見てください。彼らはオービットの伝説を信じていました。だからパウロたちを神として祭り上げようとしたのです。しかし、オービットの教訓は生かされていませんでした。どんな人でももてなすことのできる心が大切だと教えているのに、彼らの心の中には、もてなす使命ではなく、罰を受けることに対する恐れだけがありました。だから奇跡を見て、パウロたちが神々ではないかと気づいた時、全力でもてなそうとしたのです。その結果、彼らはただの人間を神として崇める失敗を犯すところでした。そしてさらに、よそから来たユダヤ人に惑わされ、パウロたちを石で打ち殺そうとしました。幸いにもパウロたちは命が助かりましたが、ルステラの人々は、神を人と間違えたり、人を神と間違えたり、殺人を犯す罪さえ犯すようになりました。人に振り回され失敗をする哀れな姿が見えます。
一方で、パウロは石打ちにされ、死んだと思われて、町の外に引きずり出されました。しかし起き上がって街の中に戻っていきました。そしてさらにデルベに行った後も、戻ってきて再びルステラの町の中に入りました。あれだけ人々から「バッド」の評価を受けて、危険な目に会ったのに、戻ることができたのはなぜでしょうか?それはパウロが使命に生きる生き方をしていたからです。私たちの神様は、使命だけ与えて放っておくような冷たい方ではありません。使命に生きる道を共に歩いて守ってくださるお方です。だからパウロは危険な場所でも、怖い場所でも、進んでいくことができたのです。イエスのように、パウロのように使命に生きる生き方をしましょう。暗闇の中でも、私たちに平安を与えるのは、揺れ動かない神様から来る使命です。称賛されても、命を狙われても、使命を捨てずに、立ち上がって自分の進むべき道を進む、そのパウロの姿をどうか忘れないでください。
4。まとめ
最後に、もう一度、自分自身に問いかけてみましょう。「私は、誰を高めて生きているのでしょうか。」人からの「いいね」や称賛を集めることが、私たちの人生の目的になってはいないでしょうか。
ルステラの人々のように、誰かの評価によって喜んだり怒ったりするのではなく、パウロのように、称賛されても迫害されても、目を神様に向けましょう。私たちが高めるべきお方は、自分自身ではなく、私たちを救い、遣わしてくださった生ける神様です。
どうか忘れないで下さい。私たちは、変わりやすい人の評価で生きる存在ではなく、変わらない神様からの使命で生きる存在です。だから、自分よりも神様を高めることに心を留め、パウロのように、評価ではなく使命に生きる者となりましょう。

