20261004どんな岩に頼るのか?(エゼキエル26:1-6)📺
20261004韓国語礼拝
聖書:エゼキエル26:1-6
題目:どんな岩に頼るのか?
賛美:382、386
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「第十一年の第一日に主の言葉がわたしに臨んだ、 「人の子よ、ツロはエルサレムについて言った、『ああ、それはよい気味である。もろもろの民の門は破れて、わたしに開かれた。わたしは豊かになり、彼は破れはてた』と。 それゆえ、主なる神はこう言われる、ツロよ、わたしはあなたを攻め、海がその波を起すように、わたしは多くの国民を、あなたに攻めこさせる。 彼らはツロの城壁をこわし、そのやぐらを倒す。わたしはその土を払い去って、裸の岩にする。 ツロは海の中にあって、網をはる場所になる。これはわたしが言ったのであると、主なる神は言われる。ツロは、もろもろの民にかすめられ、 その本土におる娘たちは、つるぎで殺される。そして彼らは、わたしが主であることを知るようになる。」
エゼキエル書 26:1-6 口語訳
1。自らの岩に頼る者
ツロ(ヘブル語で岩という意味)とは地中海沿いにある代表的なフェニキア人の都市国家の一つです。紀元前13世紀ごろから栄え、ソロモン神殿の建設にも大きく貢献しました。当時は、大陸部分とそこから800mほど離れた沖にある、小さな岩島から構成されていました。その小さな島が貿易の拠点となり、ツロを世界的な商業都市にしたのです。そしてその大きな要因に、圧倒的な防御力があります。頑丈な岩島を高い城壁で囲み、海自体も天然の城壁として利用しました。実際、アッシリアの包囲を5年間、バビロンの包囲を13年間耐えた実績があります(その後、従属)。岩+城壁+海+お金で小さいながらも強大な都市国家を築いたのがツロです。しかしこのようなツロに神様は、他の小国と違って、3章にわたって裁きの宣告をしています。そして紀元前332年、アレクサンダー大王によって800mの距離の海を埋め立てられて滅ぼされ、約1000年間続いた都市国家ツロは一度終わりを迎えます。今日は、このツロへの裁きを通して私たちが同じ過ちをしないための知恵を学んで生きたいと思います。
2。本文解説
この預言はエルサレム陥落直後にあったものです。エルサレムの滅亡について、「ああ、それはよい気味である。…私に開かれた。私は豊かになり…」と言っています(2)。これはエルサレムが倒れることで、エルサレムに流れていた分の恩恵を、自分達が受けて栄えるようになるという意味です。アンモンのように人の不幸を喜ぶだけでなく、人の不幸を利用して栄えるといういやらしさがツロにはありました。
そのツロに対して神様は「多くの国民を、あなたに攻めこさせる。…その土を払い去って、裸の岩にする。…海の中にあって、網をはる場所になる…」(3−5)と言われました。実際、ツロは、バビロン、ギリシャに攻められ、衰退しました。城壁や建物によって守られた都市にはただの岩だけが残り、国際商業都市は漁師が網を干すだけの場所となったのです。これは14節でも繰り返し言及しています。それまで、人の目にはツロは海に守られて滅びない都市でした。しかし、神様の裁きの宣言により、最大の強みである海が取り去られ滅びてしまいました。
その後、ローマの支配下で再び世界的商業都市として活躍はしますが、独立都市国家としての地位は失われていました。そういう意味では「再び建てられることはない」という言葉が成就したと言えます(14)。そしてツロの滅亡により大陸の国々も、地中海の国々も衝撃を受けます(18)。海を武器にして栄えた都市が、海に沈んだように、死んだ者、存在しない者のようになったのです(19−21)。
解釈の難しい部分は色々ありますが、はっきりしているのは、ツロが滅びる理由が「エルサレムの滅亡を利用して栄えようとしたため」(2)であり、滅ぼされる目的が「イスラエルの神が主であることを知るため」(7)であるということです。他国がうらやむツロは、貿易で栄えた都市国家です。そして、人の不幸を見ても、「かわいそう」だとか「自分も気をつけなくては」という考えではなく、「自分の利益になる」という発想しかでてきません。お金が全てという国柄でした。イザヤ、アモス、ゼカリヤ、ヨエル、アモス、エレミヤなど様々な旧約の預言者たちが他の角度でツロに対する裁きの預言をしていますが、今日のエゼキエルの預言を通して分かることは、利益中心の考えしか持たず、他人の不幸で満たされようとする者を主は裁かれるということです。
3。適用
①利益を最終的な基準にする生き方をやめましょう。
自分に利益があるかないかを考えること自体は何も問題がありません。問題は、それを最終的な基準にしてしまうことです。ツロは、エルサレムの苦しみそのものを見るのではなく、「自分にどれだけ利益があるか」というフィルターを通して見て、エルサレムを判断していました。そこには、神様の前に正しいかどうか、自分の行動には愛があるのかどうかという基準はありません。利益を基準にしだすと、私たちは正しさや愛を見失うのです。そうすると、人の失敗を見て喜ぶようになり、他人の不幸を自分の幸福の材料にするようになります。それは神様の望む神の国の民の姿ではありません。
なぜなら、この考えは、仕えられるためではなく仕えるために来たイエスと正反対だからです。ツロは「あなたが倒れれば、私は得をする」ですが、イエスは「あなたが立つために、私は倒れる」です。イエスの基準はいつも、自分にどれだけ利益があるかではなく、神様の前に正しいかどうか、神様を愛し、隣人を愛しているかどうかでした。だからイエスは人に愛される時があれば、憎まれる時もあり、この世では苦労しました。しかし、最後には神の栄光となり、天に挙げられました。自分の利益を最終的な基準にする生き方では、イエスのように神の国に辿り着くことはできません。
②ツロのような岩ではなくペテロのような岩を目指しましょう。
ツロが利益を最終的な基準にするようになったのは、小さい自分たちを自分の力で守ろうとした結果です。自分たちを守り、地形を最大限に生かし、城壁を立て、お金を儲けました。それ自体は悪いことではありません。問題は、神様ではなく自分の力や富、城壁を頼り、その力を誇ったことです。言い換えれば、自分自身が頑丈な岩となり、自分自身に頼ったのです。しかし、その高慢が導き出すのは、平安ではなく、裁きでした。
一方でペテロはギリシャ語の岩です。ペテロは自分の力で解決しようとするのではなく、神様により頼む岩です。そして本当の岩であるキリストが、自分を用いることを喜ぶ岩です。イエスはペテロの信仰告白の上に教会を建てると言われました。ペテロ自身は決して揺るがない岩ではありません。イエスに叱られ、過ちを犯し、イエスを三度も否定してしまう弱さがあります。しかしイエスはペテロを神の国のために用いることにしました。自分を誇るのではなく、神様により頼む時、私たちはペテロのように神様に用いられる、失敗しても立ち上がることのできる岩になれるのです。
③私たちがより頼むのはイエスキリストです。
だから私たちはペテロのように、イエス・キリストを岩としてより頼みましょう。自分の力や財産、地位、人からの評価を岩にするのではなく、キリストを私たちの岩とするのです。私たちは自分の力だけでは、いつまでも自分を守ることはできません。どれほど強い城壁を築いても、どれほど多くのものを持っていても、それらは永遠に私たちを守ってくれるものではありません。そして倒れたら終わりです。
しかし、キリストという岩の上に立つなら、私たちは失敗しても終わりではありません。ペテロも倒れました。しかし、キリストに支えられて立ち上がり、もう一度主に用いられました。大切なのは「私は強い岩だ」と自分を誇ることではありません。「私は弱いけれど、キリストという岩に立っています」と告白することです。そうすれば私たちは、倒れたら終わりの存在ではなく、倒れてもキリストによって立ち上がる存在になるのです。
ツロは、自分自身を守るために力を蓄え、その力を誇りました。しかし、自分の力を頼るものは、さらに強いものが現れた時、負けるしかありません。そして自分の力の弱さ、失敗を嘆かずにはいられません。しかしペテロは、自分の弱さを経験しながら、キリストにより頼む者へと変えられました。自分よりも強いものが現れても、誰よりも強い神様がついています。そしてその神様は私たちの力の弱さや失敗をも用いられるお方です。キリストという岩により頼めば、私たちの嘆きは終わりを迎えることができるのです。だから私たちも、自分自身を大きく見せるのではなく、キリストを大きくしましょう。自分の力を誇るのではなく、私たちを支えてくださるキリストを誇りましょう。
4。まとめ
ツロは、自分の力、城壁、富という「自分の岩」に頼り、その力を誇りました。しかし、私たちが頼るべき岩は、自分自身ではなく、私たちを支えてくださるイエス・キリストです。どんな岩に頼るのか、それによって私たちの生き方は変わります。自分の岩に頼るツロではなく、イエスという岩に頼るペテロになりましょう。そして、利益によって生きるのではなく、義と愛によって生きる聖徒となることを目指してください。そうすれば私たちは何度倒れても立ち上がる祝福が与えられます。

