20260913平安を知って遣わされる(ヨハネ20:21)📺
20260913宣教献身礼拝
聖書:ヨハネ20:21
題目:平安を知って遣わされる
賛美:302、304、310
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。」
ヨハネによる福音書 20:21 口語訳
1。宣教とは?
みなさん「宣教」という言葉を聞くと何を思い浮かべますか?遠くの外国へ行ったり、その場所で苦労し続けることを思い浮かべるのではないでしょうか。もちろん、それも宣教の一部です。しかし、聖書が教える宣教の本質は、単に「遠くへ行くこと」でも「苦労すること」でもありません。今日はイエスの言葉を通して、「宣教」とは何かを分かち合いたいと思います。
2。本文解説――平安を受けて遣わされる
①平安が与えられる。
今日読んだ御言葉は、イエスが十字架で死なれ、復活された後の出来事です。ヨハネ20章19節を見ると、その日、弟子たちはユダヤ人を恐れて、戸に鍵をかけて部屋の中に閉じこもっていました。イエスが十字架につけられたことで、弟子たちは恐れと不安の中にいました。これから自分たちはどうなるのか。イエスを失った自分たちはどうすればよいのか。弟子たちは、外へ出て行くことのできない状態でした。
そのような弟子たちのところへイエスが来て、ギリシャ語で「エイレーネ ヒュミーン」と言いました。「エイレーネ」は平安、「ヒュミーン」は「あなたがたに」という意味があります。つまり、「あなたがたに平安があるように」という意味です。しかし、単に「心を落ち着けて」という意味ではありません。その背景にはヘブル語の「シャローム」という言葉があります。「シャローム」には「あなたがたの人生が神との正しい関係の中で、あるべき状態に回復されるように」という、もっと豊かな意味を持っています。
そして、21節でももう一度、「平安があなたがたにあるように」と言われています。ここに非常に大切な順序があります。イエスは、弟子たちが恐れているのを見て、いきなり「行きなさい」とは言われませんでした。まず「平安があなたがたにあるように」と2度も語られました。そして、その後で、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われたのです。つまり、平安を受けることと、遣わされることが一つにつながっています。イエスは恐れたままの弟子たちを放り出して、「さあ、宣教に行きなさい」と言われたのではありません。復活された主ご自身が彼らのところに来られ、平安を与え、その上で使命を与えられたのです。
②遣わされる。
そしてイエスは、「父が私を遣わしたように」と言われました。ギリシャ語で「アポステロ」という単語が使われています。そしてイエスは「私もまたあなたがたを遣わす」と言われました。ここでは「ペンポー」という単語が使われています。同じ「遣わす」でも「アポステロ」の方が少し重たい意味合いがありますが、重要なのはイエスが弟子達を「遣わす」という事実です(※ヨハネ17:18では、どちらも同じ「アポステロ」という単語を使っているため、ここでの単語の違いは大きく気にする必要はないと考えられます)。父なる神が御子を遣わし、御子が弟子たちを遣わすという流れがあります。イエスご自身が父なる神から遣わされた方でした。そして今度は、イエスが弟子たちを遣わされます。注目すべきは、弟子たちの宣教は、弟子たち自身が考えて始めた活動ではないということです。弟子たちが「自分たちは宣教をしよう」と決めたから始まったのではありません。主から遣わされた使命なのです。
しかし、今日の御言葉で忘れてはいけないのは、イエスが「遣わします」と言われる前に、「平安があなたがたにあるように」と言われたことです。ここから、今日の宣教献身礼拝で二つのことを考えたいと思います。第一に、宣教とは遠くへ行くことではなく、主によって遣わされることです。第二に、宣教とは不安の中に送り出されることではなく、キリストの平安を受けて遣わされることです。
3。適用
① 宣教とは、遠くへ行くことでも、好きなところに行くことでもなく、主によって遣わされることです。
まず私たちは、「宣教=外国へ行くこと」という考えを改める必要があります。もちろん、外国へ行って福音を伝えることは大切な宣教です。韓国へ行く、アフリカへ行く、東南アジアへ行く。そのような働きも確かに宣教です。しかし、聖書が教える宣教の本質は、「どこへ行くか」ではありません。「誰によって遣わされたか」です。
伝道とは、福音を伝えることです。イエスの道を伝えること、と考えれば覚えやすいかもしれません。しかし宣教とは、宣言して教えることが本質ではなく、神によって遣わされることです。そして神様が求めているのは、キリストを信じるすべての人が、神によって遣わされた者として生きることなのです。遣わされている場所は必ずしも外国とは限りません。あるひとは家庭に遣わされ、またある人は学校や職場に遣わされ、またある人は地域に遣わされています。場所が宣教者を決めるのではなく、神によって遣わされたという事実が、その人を宣教者にするのです。
イエス自身も、ご自分が神様から遣わされたことを強調していました。ヨハネ福音書の中のイエスご自身の発言だけを数えても、「アポステロ」が15回、「ペンポー」が24回、合わせて39回あります。イエスの地上での歩みが、ご自分の思いや目的のためではなく、父なる神の御心を行うために遣わされた歩みだったということがわかります。そんなイエスが、「父がわたしをつかわされたように、わたしもあなたがたをつかわす」と言っているのです。ですから、私たちの宣教もまた、自分の思いで始めるものではありません。主によって遣わされた者として始まるものなのです。「私はどこへ行きたいか」ではなく、「主は私をどこへ遣わされているのか」と考えることが大切です。
3年前に韓国で、アラブ国家の宣教師になることを目指しているエジプト人青年たちに出会いました。私は彼らに「どの国に行きたいですか」と尋ねたことがあります。しかし彼らは、自分たちが行きたい場所ではなく、「神様が遣わす場所に行きたい。そのためにしっかり準備したい」と答えました。私はその答えに感嘆したことを覚えています。彼らは宣教の本質を掴んでいると感じました。宣教とは、「行きたい場所に行く」ことでもありません。「遣わされた場所に行く」ことなのです。
遣わされた者は、自分の目的を果たすために行くのではありません。自分を遣わした方から与えられた使命を果たすために行くのです。宣教も同じです。「私がこの人に福音を伝えたいと思ったから行く」のではありません。主が私を遣わしてくださったから、その人のところへ行くのです。だから私たちは、家庭に遣わされています。職場に遣わされています。学校に遣わされています。地域に遣わされています。そして必要なら、世界へ遣わされます。場所が宣教者を決めるのではなく、神によって遣わされたという事実が、その人を宣教者にするのです。
② 宣教とは、不安の中に送り出されることではなく、平安を受けて遣わされること
ここで私たちはもう一つ大切なことを忘れてはいけません。宣教とは、ただ「遣わされること」ではありません。「平安を受けて遣わされること」です。弟子たちは恐れ、戸に鍵をかけていました。その弟子たちにイエスは、「さあ、行きなさい」とだけ言われたのではありません。まず、「平安があなたがたにあるように」と言われ、その後に「わたしもあなたがたを遣わします」と言われました。つまり、平安が先で、遣わされることが後なのです。
私たちは、ときどき宣教を「自分の生活を捨てて、知らない場所へ行くこと」だと考えます。「大変なところへ行かなければならない」「不安でも我慢して行かなければならない」と考えることがあります。しかし、イエスはそのように弟子たちを遣わされたのではありません。「平安があなたがたにあるように」と言ってから遣わされたのです。
イギリスの発達心理学者ジョン・ボウルビィ(1907−1990)は、親子関係において重要なのは、親がどれだけ愛情を注いだかではなく、子供がどれだけ親に「安心」を覚えたかだと教えています。ある親は子供のために多くの犠牲を払ったのに、子供が遠くに離れてしまいます。親は全てを子供に捧げたつもりなのに、子供は親よりも友達を優先して相談したり、自分で解決しようとします。しかし別のある親は子供のためにそれほど多くの犠牲を払っていないのに、子供が大きくなっても近くにいます。多くのことを親に相談しようとします。この違いはなんでしょうか。愛の量の違いではありません。安心を得た経験の違いにあります。子供が親に求めているのは、親が注ぐたくさんの愛情でも、親の高い能力でもなく、避難所としての安心感です。この帰ることのできる避難所があるから、子供達は外で大変な事があっても乗り越えていけるのです。社会に出ても逞しく生きていける人には、安心感を得られる避難所があ流のです。
同様に、私たちの宣教人生において大切なのは、「イエスという避難所があること」です。多くの宣教師が宣教人生の終わりに感じることがあります。それは、「自分ではなく、全て主がなさったことだ」という感覚です。そこには自分の無力感もありますが、同時に、「主がそばにいてくださったからここまで来れた」という思いもあります。宣教師は自分の人生を通して、イエスから得られる絶対的な安心感を経験するのです。
これは、私たちとイエスとの関係にも言えるのではないでしょうか。私たちが宣教に出て行くために必要なのは、「私は大丈夫だ」「私はなんでもできます」という自信ではありません。能力の高さでもありません。「イエスのもとに帰れば大丈夫だ」という信頼です。宣教に出て行って失敗するかもしれません。福音を伝えても聞いてもらえないかもしれません。人間関係で傷つくかもしれません。思ったように結果が出ないかもしれません。しかしその時に、イエスという帰る場所があるのです。宣教とはキリストという避難所から出て行き、そしてまたキリストのもとへ帰ってくることです。だから誰でも、ただ勇気を出せば宣教できるわけではありません。自分を支えてくださる主がおられることを知り、失敗しても、傷ついても、疲れても、主のもとに帰ることができる人だからこそ、安心して遣わされていくことができるのです。
4。まとめ
宣教とは、なんでしょうか?遠くへ行くことでも、苦労することでもありません。自分の行きたいところへ行くことでも、自分の力で頑張ることでもありません。宣教とは、主によって遣わされ、主の使命を果たすことです。
そして宣教とは、不安の中に送り出されることではなく、キリストの平安を受けて遣わされることです。宣教に必要なのは、自信でも能力でもありません。「イエスのもとに帰れば大丈夫だ」という信頼です。
だから私たちは、まず平安を受けて下さい。そしてキリストという避難所から、それぞれ遣わされた場所へ出て行く存在だということをどうか忘れないでください。


