20260927サウロではなくパウロとして(使徒13:4-12)📺

20260927日本語礼拝

聖書:使徒13:4-12

題目:サウロではなくパウロとして

賛美:615、449、452

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

「ふたりは聖霊に送り出されて、セルキヤにくだり、そこから舟でクプロに渡った。 そしてサラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言を宣べはじめた。彼らはヨハネを助け手として連れていた。 島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、そこでユダヤ人の魔術師、バルイエスというにせ預言者に出会った。 彼は地方総督セルギオ・パウロのところに出入りをしていた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロとを招いて、神の言を聞こうとした。 ところが魔術師エルマ(彼の名は「魔術師」との意)は、総督を信仰からそらそうとして、しきりにふたりの邪魔をした。 サウロ、またの名はパウロ、は聖霊に満たされ、彼をにらみつけて 言った、「ああ、あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、すべて正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか。 見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲目になって、当分、日の光が見えなくなるのだ」。たちまち、かすみとやみとが彼にかかったため、彼は手さぐりしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった。 総督はこの出来事を見て、主の教にすっかり驚き、そして信じた。」

‭‭使徒行伝‬ ‭13‬:‭4‬-‭12‬ 口語訳‬

1。何が成功か?

 私たちは、何かをしたとき、その結果を見て「成功したか、失敗したか」を判断します。それは今後のために大切なことです。しかし、伝道において、何人が信じたのか、どれだけ教会が大きくなったのか、どれだけ多くの人に影響を与えたのかという、目に見える結果にだけ目を向けて終わることには注意しなければなりません。使徒行伝13章に記されているキプロス島での伝道を見るとき、私たちは一つの大切なことを考えさせられます。それは、神様が遣わされた人は、何を基準に判断すべきなのかということです。

 パウロとバルナバは、聖霊によって遣わされ、キプロス島へ向かいます。そこにはユダヤ人もいれば、ローマの総督もおり、魔術師や偽預言者もいました。彼らはそのような様々な人々の中で御言葉を伝えていきます。その過程で、私たちの目にはいくつもの印象的な出来事が映ります。しかし、この箇所をよく読んでいくと、単に「魔術師が裁かれ、総督が信じた」という出来事だけではないことが分かります。

 では、キプロス島での伝道を通して、神様は私たちに何を教えておられるのでしょうか。今日は、パウロとバルナバがどのように遣わされ、何を大切にして御言葉を伝えたのかを見ながら、私たちが宣教と信仰生活において、何を大切にすべきなのかを一緒に学んでいきたいと思います。

2。本文解説

①聖霊に遣わされてキプロスへ

 4節:バルナバとサウロの二人は、聖霊に遣わされて、アンテオケ教会からセルキヤに下り、そこから船でクプロ=キプロスへ渡りました。キプロスは銅の鉱脈を持つ重要な地域であり、銅(copper)の語源となったほどです。また、バルナバの故郷であり、大きなユダヤ人共同体が存在していました。そのため人間的に考えれば、伝道しやすい場所であったと言えます。しかし聖書は、この働きが「聖霊の導き」によるものであることを強調しています。

 5節:彼らはまずサラミスに到着し、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を宣べ伝え始めました。サラミスは東海岸に位置する大きな港町で、劇場や浴場、体育場がありました。サウロたちは、まずユダヤ人に福音を伝え、その後に異邦人へと広げていくという方法をとりました。ここで彼らはヨハネというマルコを助手として同行させました。彼はバルナバのいとこであり、のちにペテロの証言を元にマルコによる福音書を書くようになった人物です。

 6節:その後、島全体を巡回し、最終的に反対側にある首都パポス(約160km離れている)まで進みました。ギリシャ神話の女神アフロディーテが誕生した海岸がある地域です。そこでユダヤ人の魔術師バルイエスという偽預言者と出会いました。偽預言者とあるので、異教の魔術師というよりは、ユダヤ人共同体の中で人々を惑わす信仰のない人物だったと考えられます。

②総督セルギオ・パウロとの出会い

 7節:パポスで彼らは、キプロス島のローマ人総督、セルギオ・パウロと出会います。ルカは彼を「賢明な人」と評価していますが、それは地位や知識によるものではなく、福音に関心を持ったからです。しかし、そんな総督のもとに、魔術師バルイエスという人物が出入りしていました。バルイエスとは「イエスの子」と言う意味です。

 8節:総督はバルナバとサウロを招き、御言葉を聞こうとしました。しかし、バルイエスが現れ、サウロらの働きを妨害しました。バルイエスが別名エルマと呼ばれていたことから、魔術師としての地位をある程度確立していたことがわかります。そして総督がこの魔術師を側近としていたのは、ユダヤ人に関する助言を得るためであったと考えられます。つまり、バルイエスはサウロ達によって、自分の総督の側近としての地位が脅かされることを恐れていたのです。

③パウロの叱責と神の御業

 9節:そしてサウロ、すなわちパウロは聖霊に満たされ、この魔術師をにらみつけました。ここでルカは、サウロの呼び方をパウロと変えます。ただし、名前がここで急に変わった訳ではありません。サウロはユダヤ名で、ユダヤの最初の王様サウルから来た偉大な名前です。一方でパウロはローマ名で、「いと小さき者」という意味です。今後ローマ地方に伝道していく彼にとってはローマ名のパウロがふさわしいというルカの考えでしょうが、王様から小さい者へに生まれ変わったパウロの人生をも表していると考えられます。

 10節:パウロは「あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、全て正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか」と厳しく叱責しました。バルイエスの行動は「イエスの子」と言うにはとてもかけ離れていたため、パウロは彼を「悪魔の子」と呼びました。

 11節:そしてパウロは、彼がしばらくの間盲目になることを宣言します。するとその通り、彼は暗闇に覆われ、手探りで導く人を求めるようになりました。これは、かつてパウロ自身が回心の際に目が見えなくなった出来事とも重なります。また、ペテロがサマリヤで魔術師シモンを叱責した出来事とも共通しています。

 12節:この出来事とパウロの教えを通して、総督セルギオ・パウロは主を信じるに至りました。一方で、ユダヤ人であるバルイエスは福音を拒み、ローマ人である総督がそれを受け入れるという対照的な結果となりました。皇帝礼拝が義務付けられているローマ人総督にとって、皇帝崇拝を拒み、イエスキリストを信じるというのは、命懸けの危険な行為です。しかし、総督はそれを承知の上で、イエスキリストを受け入れたのです。

3。適用

①成果よりも聖霊の導きに従う事が大切。

 パウロたちはキプロス全体を巡回しました。大阪府の5倍近くもあるこの場所を巡回して、聖書に記されている目立った成果は、総督の回心のみです。もちろん他にも記載されていない小さな実があった可能性はありますが、広い地域を回って一つの実りということも現実にはあり得ることです。皆さんはパウロ達の最初の伝道が成功したと考えますか、失敗したと考えますか?

 ここで大切なのは、結果ではなく従順です。私たちは種を蒔き、水を注ぐ役割を担いますが、成長させてくださるのは神様です。すぐに実を結ぶ働きもあれば、なかなか実を結ばない働きもあります。しかし、実りが見えなくても忠実に続ける教会こそが、より忠実な神のしもべであると言えるでしょう。パウロは魔術師シモンを偽預言者だと見抜きました。それはパウロが博学だからではなく、聖霊によって素直に送り出されるような従順な僕だからです。その結果、キプロス島全体を周ることができ、イエスの教えを妨害する魔術師を退け、1人の人間が命懸けでイエスキリストを信じるように導いたパウロの伝道は大成功したと言えるでしょう。忘れてはいけないのは、目に見える成果ではなく、神様の導きに従う従順さが私たちにとっては大切だということです。

②大きな者ではなく、小さな者として遣わされよう。

 私たちは、宣教するためには知名度や知恵が重要だと考えがちです。世の中では、大学名や会社名などの肩書きや、実績で判断されるからです。確かに知名度や知恵があると、大きな結果を得られると感じます。しかし聖書では、宣教するために、すごい人や偉い人になりなさいとは言っていません。ルカはサウロの宣教の始まりにおいて、パウロという名前に記述を変えました。「大きな者」としてではなく、「小さな者」として宣教を始めたのです。そして「大きな者」であることにこだわる魔術師シモンの妨害を打ち破り、総督に福音を述べ伝えました。私たちに必要なのは、人々の前で「大きな者」になる知恵ではありません。神様と人々の前で「小さな者」になる知恵です。私たちはパウロのように「小さな者」で構いません。たとえたくさん勉強できて、お金をたくさん稼ぎ、人の心を掴む技術があったとしても、親を無視したり、弱い人を馬鹿にしたり、正直さをなくして生きても良いというのなら、果たしてその人に宣教という神様の働きに参加する資格はあるのでしょうか。

 ルカは総督セルギオ・パウロを「賢明」だと評価しました。それは総督だからではなく、福音に関心を持ったからです。しかもその福音は皇帝崇拝に反するもので、ローマでの自分の地位を小さくする危険性のあるものです。しかし、この総督は「主の教えにすっかり驚き、そして信じた」とあります。魔術師シモンが盲目になった出来事を見て信じたのではありません。最終的に、主の教えを受け入れて信じたのです。伝道で「見せて信じる」のは大切ですが、それだけでは不十分です。それは自分の経験に基づく信仰であり、長続きしません。「見せて信じる」のはあくまで入り口であり、私たちが目指すのは「御言葉で信じる」です。それは神の言葉に基づく信仰であり、最後まで続く信仰になります。パウロが「大きな者」のままではなく「小さな者」として従順に遣わされた結果、このような実を結ぶことができたのです。

 そのため、宣教において注意すべきことは、自分が前に出てしまうことです。私たちがサウロのように偉大になると、神様の働きを見ることができません。そして成果が出ないと諦めてしまいます。しかしパウロのように小さくなると、成果が出なくてもキプロス島を巡回することができます。そして巡回した後、神様がシモンとセルギオ・パウロに働いたような御業を見ることができるでしょう。パウロが魔術師に与えた裁きという「目に見える出来事」に注目して終わるのではなく、パウロとバルナバがキプロス全体に福音を伝え続けたという事実を覚えてください。私たちの教会の目的はここにあります。教会の目的は目に見える立派なメガチャーチを作ることではなく、御言葉に立って、全ての人に福音を伝えることです。私たちは自分の力を誇る「大きな者」としてではなく、神様の力を讃える「小さな者」として選ばれた存在だということを忘れないでください。

4。まとめ

 パウロとバルナバは、聖霊に遣わされ、キプロス島を巡りながら忠実に御言葉を伝えました。目に見える成果は一人の総督の回心でしたが、彼らは結果ではなく、神様の導きに従いました。私たちも、目に見える成果だけで宣教を判断せず、御言葉の種を蒔き続けることが大切です。自分を大きくするのではなく、小さき者となって聖霊に従い、最後まで福音を伝える教会になりましょう。

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