20260815バルテマイ―従うために憐みを求める信仰(マルコ10:46-52)
20260815土曜祈祷会
聖書:マルコ10:46-52
題目:バルテマイ―従うために憐みを求める信仰
賛美:469
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
1。本文解説
①46節
バルテマイは、目の見えない人であり、物乞いをしていた人でした。仕事をすることも、自分の力で生活することも難しく、エリコの町の外側の道端に座って、人々から施しを受けながら生活していました。テマイとは「尊敬される者」という意味ですが、とても尊敬されるような状態ではありませんでした。事が起こったのは、イエスが弟子たちと大勢の群衆と共に、エリコの町を出ようとしている時でした。
②47節
バルテマイはナザレのイエスが通ることを聞いて、『ダビデの子イエス様、私をあわれんでください』と叫び始めました。「ダビデの子」とは、旧約聖書に約束されたダビデの家系から来られる王、救い主メシアを指す言葉です。つまり、テマイの子である一人の盲人が、イエスを「ダビデの子」と認めているのです。ここに、この物語の非常に美しいところがあります。バルテマイは目が見えませんでしたが、彼はイエスが誰であるかを見ていたのです。一方、目の見える多くの人々は、イエスと一緒に歩きながらも、イエスが誰なのかを十分に理解していませんでした。
③48節
人々は彼を黙らせようとしました。「黙りなさい。」「騒ぐな。」そう言われたことでしょう。しかし、バルテマイは諦めませんでした。「ますます激しく」叫んだのです。彼にとって、イエスが目の前を通っているこの機会を逃すことはできませんでした。だから、人々の声よりも、イエスへの信頼を優先しました。「ダビデの子よ、私をあわれんでください。」これが彼の祈りでした。そして、その叫びをイエスは聞かれました。
④49−52節
イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい』と言われました。イエスは、道端に座っていた一人の盲人の叫びを聞き、立ち止まられたのです。そしてイエスが「何をしてほしいのか」と尋ねると、彼は、「先生、目が見えるようにしてください。」と願いました。そしてイエスは、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。
すると、彼はすぐに見えるようになり、イエスに従っていきました。
2。適用――バルテマイの信仰
① あわれみを求める信仰
バルテマイの信仰の第一の特徴は、あわれみを求める信仰です。彼は自分の功績を訴えませんでした。「私はこれだけ頑張りました。」「私はこれだけ良いことをしました。」とは言いませんでした。ただ、「私をあわれんでください。」と願いました。これは、自分の無力さを知る人の祈りです。
このお話の直前では、弟子たちが「誰が偉いのか」ということを考え、ヤコブとヨハネもイエスが栄光を受けるとき、自分たちを右と左に座らせてほしいと願っていました。そしてイエスは、ご自分について、「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た」と教えられました。
その直後に登場するのがバルテマイです。弟子たちが自分の地位や利益を求めている中で、バルテマイは、「私をあわれんでください」と叫んだのです。彼は、自分には何も誇るものがなく、自分自身の力ではどうすることもできないことを知っていました。だからこそ、彼はイエスのあわれみを求めたのです。私たちも神様の前では、自分の力や功績を誇るのではなく、「主よ、私をあわれんでください」と祈る者でありたいと思います。
② イエスに従う信仰
そして第二に、バルテマイはイエスに従う信仰を持っていました。52節には、「すると、すぐに見えるようになり、彼は道を進むイエスについて行った。」とあります。ここで大切なのは、彼が癒やされてから初めてイエスを信じたのではないということです。まだ目が見えていないときから、「ダビデの子イエス様」と呼び、まだ癒やされていないときから、「私をあわれんでください」とイエスに信頼していました。そして目が見えるようになったとき、彼はイエスについて行きました。
つまり、彼が求めていたのは、単に「目が見えるようになること」だけではなかったのです。彼の心には、最初からイエスに従いたいという信仰があったのです。私たちも、「神様が願いをかなえてくださったら従います」という信仰ではなく、何も変わっていないときから主を信頼し、主について行く者となりたいと思います。
3。まとめ
バルテマイは、「主よ、私をあわれんでください」と叫ぶ信仰を持っていました。そして、癒やしを受ける前からイエスを信頼し、癒やされた後は、イエスについて行く者となりました。私たちも主のあわれみを求め、妨害に会う時にもイエスを信頼し、主について行く者となりましょう。


