20260906主の働きを妨げないペテロ(使徒11:1-5)📺

20260906日本語礼拝

聖書:使徒11:1-5

題目:主の働きを妨げないペテロ

賛美:94、251、469

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

「さて、異邦人たちも神の言を受けいれたということが、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちに聞えてきた。 そこでペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を重んじる者たちが彼をとがめて言った、 「あなたは、割礼のない人たちのところに行って、食事を共にしたということだが」。 そこでペテロは口を開いて、順序正しく説明して言った、 「わたしがヨッパの町で祈っていると、夢心地になって幻を見た。大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、天から降りてきて、わたしのところにとどいた。」

‭‭使徒行伝‬ ‭11‬:‭1‬-‭5‬ 口語訳‬

1。「そんなはずはない」と言う人間

 私たちは、自分の中にそれぞれ「こうであるはずだ」という枠を持っています。「クリスチャンとは、こういう人であるはずだ」「神様が働かれるなら、こういう方法であるはずだ」と。そして、自分の考えている姿と違うものを見ると、「そんなはずはない」と思ってしまいます。昔、ある人が牧師を非常に厳かな存在だと考えていました。ところが、その牧師が子どもを抱き上げて、あやしている姿を見ました。その人は、それを見てがっかりしたそうです。なぜでしょうか。その人の中に「牧師はこうあるべきだ」という枠があったからです。

 イエスが十字架にかかって死ぬ時、ユダヤ人たちは「今、十字架から降りてみよ。そうしたら信じよう」(マタイ27:42)と言いました。もし神の子なら人間によって十字架につけられて死ぬはずがない、と考えているわけです。人は自分でふさわしいと思えるものだけを信じます。しかし、神様は私たちの枠の中に閉じ込められるお方ではありません。神様は人の枠を超えて自由に働かれ、私たちが「そんなことはあり得ない」と思うことをなさいます。そして、その御業を受け入れて従うことが信仰なのです。ペテロは神様の御業を信仰をもって受け入れました。そして、エルサレム教会の人々もペテロの証言を信仰をもって受け入れるようになります。今日はペテロの証言を通して、教会が変化していく姿を一緒に見ていきたいと思います。

2。ペテロの証言

①悪い噂が立つペテロ

 ペテロは異邦人コルネリオの家に入り、福音を語り、聖霊が彼らに降るのを見て、彼らにバプテスマを受けさせました。しかし、そのペテロの行動によってエルサレム教会に衝撃が走りました。パウロの大迫害以降の深刻な状況です。カイサリヤで、割礼を受けていない異邦人たちに聖霊が降り、救われたという知らせがエルサレムにまで届いたのです。当時のユダヤ人にとっては、「ありえない」という状況です。ユダヤ人から見た異邦人は捨てられた民であり、神の救いから漏れている人たちです。もし彼らに救いがあるなら、まず割礼を受けてユダヤ人になり、律法を守らないといけないという考えがありました。

 しかし、ペテロの話では、異邦人が異邦人のままで神の言葉を受け入れ、聖霊が下ったのです。イエスを信じるユダヤ人にとってもあってはならないことでした。それは、教会が誕生したペンテコステ以降の約8年間で、初めての出来事でした。それまで使徒の承認のもとに教会の交わりに加わるのを許された異邦人は誰もいませんでした。8章で救われたサマリヤ人は元々はユダヤ人と兄弟的な存在ですし、エチオピア人も「ユダヤ人」になった改宗者でした。しかし10章で救われたコルネリオはローマ人のまま救われたのです。「救われるためには、まずユダヤ人にならなければならない」という常識が砕かれた瞬間でした。

②批判を受けるペテロ

 ペテロがエルサレムに戻ってきた時、教会内の割礼を重んじる人々によってペテロは批判を受けました。問題となったのは「割礼のない人たちと一緒に食事をしたこと」です。興味深いことに、彼らが最初に問題にしたのは、「異邦人が救われたこと」ではありません。「ペテロが異邦人に福音を語ったこと」でもありません。「一緒に食事をしたこと」でした。当時のユダヤ人にとって、異邦人と食事を共にすることは、単なる食事ではありませんでした。交わりを意味します。「あなたと私は同じ仲間です」という意味になります。一般の聖徒でもなく、エルサレム教会の指導者の1人が、異邦人と共に食事をして自らを汚すような真似をしたのです。指導者の悪い評判は教会の立場を危うくするものです。だから彼らは、「ペテロ、あなたは何をしているのか」と責めたのです。

 他にも、ペテロの行動による悪影響を心配する気持ちがあります。教会が異邦人と親しくしていることがイエスをまだ受け入れないユダヤ人たちに知られれば、彼らはさらに教会のいうことに耳を傾けなくなるかもしれません。ステパノが命懸けで行ったユダヤ人伝道の働きが無駄になるのではないかという不安があります。サウロの回心以降、比較的平和であった教会が再び脅かされる恐れもあり、教会が内部分裂する恐れもあります。しかし、ここに人間の伝統が福音を妨げる危険があります。本来なら、「異邦人が救われた。神様に感謝しよう!」と言うべきでした。ところが、「私たちの考えていた救い方と違う」「これから大変なことが起こるかもしれない」という理由で、それを問題にしてしまったのです。

③証言するペテロ

 ここでペテロは、感情的に「私が正しいんです!」「私には使徒としての権威があります!」などと応戦しませんでした。ペテロは、起こったことを順序正しく、ありのまま説明しました。夢心地になって幻を見たと言いました。そして説明を始めます。天から大きな布のようなものが降ってきて、その中には清い動物と清くない動物がいました。そして「ペテロ、立って、ほふって食べなさい」と言われました。ペテロは「主よ、とんでもないことです。私は、きよくない物や汚れた物を一度も食べたことがありません」と拒みました。しかし、神様は「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」と言いました。これが三度繰り返されました。その時ちょうどコルネリオの使いが来ました。そして「ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい」との声を聞いてやってきたことを聞きました。そしてペテロが語り出したところ、聖霊が私たちに降った時と同じように、彼らの上にも降りました。そして「このように、私たちが主イエスキリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、私のような者が、どうして神を妨げることができようか」(17節)と締めくくりました。つまりペテロは、自分の正しさを主張したりせず、神様がどのように自分に働かれたかを伝えたのです。

 通常なら、このような証言の場で夢心地で見た幻に従ったなどと言えば、人々に呆れられてしまいます。指導者としての信用を失うかもしれません。しかし、ペテロはそこで、自分の考えを押し通すための戦略を練ったりはしませんでした。その「あり得ない出来事」を、自分の考えに合わせて説明し直すのではなく、神がなさったことをそのまま説明し、「神がなさったことだから、私は従った」という立場をとったのです。「私はこう思う」ではありません。神がなさったことを、そのまま認めるべきではないか、というのがペテロの論理でした。

④その後の教会の変化

 ペテロのありえないような証言を聞いて、エルサレム教会の人々は沈黙した後、「それでは神は、異邦人にも命に至る悔い改めをお与えになったのだ」と言って神様を賛美しました。異邦人が始めて異邦人として教会に迎えられることが認められた瞬間でした。ペテロの自分ではなく神様の働きを証言するその言葉で、ペテロを批判していた人々の心が開かれたのです。著者のルカは、10章での出来事を11章のペテロの証言の中で再度記述しています。読者にとっては少しくどいように感じるかもしれません。しかし、その記述はペテロの取り繕うのではなく、正直に話す姿勢が表れています。

 そして、その教会の変化は、他の地域でも起こり始めました。19節以降を見ると、クプロやクレネ出身のユダヤ人を通して、アンテオケ教会で異邦人であるギリシヤ人が多く迎え入れられる出来事がありました。アンテオケは当時のローマ帝国内で、ローマとアレクサンドリアに次ぐ第三の大都市でした。ローマ総督官邸や政庁が置かれているだけでなく、富裕層がたくさん住んでいました。近くにはダフネの森という異教の聖域があり、ローマ文化とギリシャ文化の融合する街でした。このようなエルサレムとは真逆の場所で、異邦人教会が誕生したのです。エルサレム教会は事実確認をするため、バルナバをアンテオケに派遣しました。バルナバはアンテオケ教会を受け入れ、励ましました。さらにはサウロをタルソから連れてきてアンテオケで大勢の人々を教えるようになりました。ここで教会の人々がクリスチャンと初めて呼ばれるようになりました。ペテロの証言を受け入れたエルサレム教会は、アンテオケ教会でも神様が働かれた驚くべき御業を見ることができました。この後、宣教の舞台はエルサレム教会からアンテオケ教会に移って行きます。

3。適用

①私たちの小さな常識や伝統で、神様の御業を妨げないようにしましょう。

 私たちにも「こうであるはずだ」という枠があります。教会はこうあるべきだ。礼拝はこうあるべきだ。神様はこう働かれるはずだ。しかし、神様は私たちの常識に従って働かれるお方ではありません。イエス様ご自身も、人々の期待を超えたお方でした。人々は「神の子なら、十字架につけられて死ぬはずがない」と考えました。しかし、神様は人間の期待とは反対の道を通られました。人間にとっては「そんなはずはない」ことでしたが、そこに救いがありました。ですから、私たちが「あり得ない」と思うことを見たとき、すぐに否定するのではなく、「これは神様が何をなさっているのだろうか」と考える必要があります。伝統や慣習を守ることが悪いのではありません。しかし、伝統を守るために神の御業を拒むなら、それは問題です。教会の文化や自分の経験が、福音より前に出ないように注意が必要です。

私たちも神様から与えられたものを消さず、証人としてそのまま語りましょう。

 ペテロは幻を見ました。それは「夢心地になって」見た幻でした。人間的に考えれば、「本当にあれは神からだったのだろうか」と思うこともできたでしょう。忘れてしまうこともできました。しかし、ペテロは消しませんでした。神様から与えられたものを覚えていました。そして、必要な時にそれを証言しました。私たちも聖書を通して、毎週神の言葉を聞いています。この世では聞くことのできないメッセージです。神が人を愛された。神の御子がこの世に来て、十字架で私たちの罪を負われた。そして死から復活された。聖霊を与えてくださった。そして、私たちを神の子とされた。これは、この世の常識を超えています。しかし私たちは、それを「よく分からないから」と消してしまうのではなく、神の言葉として受け取り、証人として語る者になるべきではないでしょうか。ペテロは、「私はこう考えます」と証言したのではありません。「私はこれを見ました。神様はこうなさいました。」と語りました。私たちの信仰も、ここにあります。

 

神の御業を最優先に従い、私たちも神様のなさることの目撃者となりましょう。

 ペテロが幻に従えば、反対されることは分かっていました。実際にエルサレムに戻ると非難されました。それでもペテロは従いました。なぜなら、神に従うことを、人から認められることよりも優先したからです。私たちは、神様のメッセージを聞いても、「時間があればしよう」「余裕ができたら祈ろう」「もう少し生活が整ったら神様に従おう」と考えてしまいます。しかし、神の御言葉を最後尾に置いたままでは、何も始まりません。常識の世界を優先し、最後に神様を考えるなら、神様から受けた幻は次第に消えていきます。だからこそ、私たちは神の御言葉を最優先にしなければなりません。

 ある人は、高給の仕事をしていました。しかし、イエス・キリストに出会い、その仕事を辞め、自分の人生を神に捧げる道を選びました。周りの人々は「もったいない」「なぜそんなことをするのか」と言いました。しかし、その人にとっては、神様から与えられたものが、それまでの人生の常識を超えたのです。神の御業に従うところに、信仰があります。その後の彼の人生は知りませんが、ペテロやエルサレム教会のように神様の驚くべき働きを見たと信じます。

4。まとめ ― ペテロの証言が教会を前進させた

 ペテロは、自分の常識や思い込みという枠を下ろし、神様の導きに従いました。そして、自分の考えを加えるのではなく、見たこと、聞いたことをありのままに証言しました。その結果、ペテロを通して主が働かれ、異邦人にも救いの御業が広がり、教会はさらに発展し、クリスチャンが誕生しました。

 私たちも「自分が働く」のではなく、「主が働かれている」ことを認めることが大切です。

神様から与えられたメッセージを最後尾に置いて消してしまうのではなく、最優先にして従いましょう。そうするとき、私たちもペテロのように、私たちの想像を超えた神様の驚くべき御業を見ることができるのです。私たちも自分の枠ではなく神の御業を見て、それを信じ、その御業に従っていく者となりましょう。

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