20260909とりなすダニエルが見たもの(ダニエル9:1-5)📺
20260909水曜礼拝
聖書:ダニエル9:1-5
題目:とりなすダニエルが見たもの
賛美:199、202
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「メデアびとアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤびとの王となったその元年、 すなわちその治世の第一年に、われダニエルは主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉により、エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は七十年であることを、文書によって悟った。 それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、断食をなし、荒布を着、灰をかぶって祈り、かつ願い求めた。 すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、 われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。」
ダニエル書 9:1-5 口語訳
1。御言葉を思い出し行動した人々
イエスの言葉を思い出し、エルサレム崩壊から免れた人々がいました。AD64年に新しくユダヤ総督となったゲシウス・フロルスは、ローマ皇帝の権威を笠に着てエルサレム神殿から大金を取り上げようとし、それまで以上に強硬な姿勢でユダヤ人を取り締まりました。これまでは総督に対する不満があれば皇帝に訴えていましたが、皇帝の権威を利用して人々を虐げているという感覚が強くなり、「ローマに訴える」のではなく「ローマそのものを追い出す」という動きが広がりました。そして熱心党を中心に反乱が起こり、AD66年、ユダヤ戦争が始まりました。ローマ軍はエルサレムを包囲しましたが、なぜか撤退を始めました。ユダヤ人は撤退するローマ軍を追撃し、に大きな打撃を与えました。
ユダヤ人は「ローマ軍を倒せる」と喜び、本格的な戦争へと発展していきました。一方で、クリスチャンたちはイエスの言葉を思い出しました。「預言者ダニエルによって語られた『荒らす忌むべきもの』が聖なる所に立つのを見たなら、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」(マタイ24:15−16)。また、「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その時、その滅亡が近づいたことを知りなさい」(ルカ21:20)とも言われました。そこで彼らはエルサレムを離れ、ヨルダン川東側のペラという山地へ避難しました。その後、再びエルサレム包囲が起こり、AD70年にエルサレムは完全崩壊しました。エルサレムに残った者たちは殺されましたが、イエスの言葉を思い出して山へ逃げた者たちは助かったのです。これは4世紀の教会史家エウセビオスの『教会史』に伝えられている出来事です。ここで大切なのは、彼らが危険な状況の中で「御言葉を思い出し行動した」ということです。 御言葉は、ただ聖書を読んだというだけではありません。危機の中で御言葉を思い出し、それに従ったとき、彼らの歩みが変わりました。
そして、今日のダニエル9章にも、御言葉を思い出した一人の人物が登場します。ダニエル自身です。ダニエルは御言葉を思い出し、ある行動をとりました。その結果、ダニエルは自分が考えていた以上に大きな神様の御計画を見ることになったのです。
2。本文解説(9章)
①とりなして祈るダニエル(1−19)
バビロンが滅び、ダニエルがメディア人ダリヨスに仕え始めた時のことです。ダニエルはエレミヤ書を読み、崩壊したエルサレムが回復を始めるのに70年かかることを知りました。そしてもうすぐ神様が約束された70年が終わろうとしており、神様がエルサレムを回復しようとしていることを悟ったのです。しかしダニエルは、もうすぐ70年だから回復をお願いします、とは祈りませんでした。むしろ「私たちは罪を犯しました」(5)と罪の告白をしました。ダニエル自身は神様に忠実に生きてきたのに、なぜでしょうか?ダニエルは「我々」という言葉を使って祈っています。つまり、自分勝手に生きてきたイスラエルの民の罪を自分の罪として祈ったのです。ダニエルは神様に対して真面目に生きてきました。それなのにイスラエルの罪によって10代の頃にバビロンに連行され、もう80歳を超えていますが、エルサレムに帰ることはできません。しかしダニエルは、イスラエルに対して不満を言うのではなく、イスラエルの罪を自分の罪として祈っているのです。御言葉は、人を裁くための鏡ではなく、まず自分自身を映す鏡です。そして誰かのために祈るのではなく、誰かの罪を自分の罪として祈るダニエルの姿に、とりなしの祈りの本来の姿が見えてきます。
②答えを持ってくるガブリエル(20−27)
そんなダニエルの祈りに対して、神様の答えを天使ガブリエルが持ってきました。「あなたの民と、あなたの聖なる都について、70週が定められている」(24)と答えました。大きく分け手、その70週は7週、62週、1週の3つの期間に分かれていると言います。1日を1年として考えると、まず49年後にエルサレムが回復し、さらにその434年後にメシアがやってくるということです。しかしそのメシアは絶たれ(26)、「来るべき君の民」が町と聖所を滅ぼし(26)、残りの1週間、つまり最後の7年の間に「荒らす者」が「憎むべき者」の翼に乗ってくる(27)と教えています。しかし、彼らの上には定まった終わりが注がれる運命であることを付け加えています。つまり神様は、ダニエルが理解した70年という期間のさらに先に、神様が罪を完全に処理し、救いを完成させる計画があるということを教えているのです。ここで重要なポイントは、ダニエルがとりなして祈ったとき、彼が祈っていた問題の向こう側にある神様の御心が見えてきたということです。
3。適用
① 御言葉を聞いてとりなす者に、神の御心が見えてくる。
私たちは聖書を読んでいると、「この御言葉はあの人に必要だ」「あの人が悔い改めなければならない」と思ってしまうことがあります。しかし、ダニエルは違いました。神様の御言葉を聞いたとき、自分を正当化するのではなく、自分を神様の前に置きました。そして、「私たちを赦してください」と、とりなし始めたのです。私たちも、御言葉を聞いたときに、人を裁くのではなく、まず自分の心を神様の前に置かなければなりません。「主よ、あの人が変わりますように」ではなく、「主よ、私を変えてください」「主よ、私たちを憐れんでください」と祈るのです。
すると不思議なことが起こります。ダニエルが悔い改め、とりなし始めたとき、ガブリエルが遣わされました。そして神様は、ダニエルが祈っていたことを超えて、さらに大きな御計画を示されました。ダニエルはイスラエルの回復を祈っていました。しかし神様が示されたのは、「七十週」という、イスラエルの歴史を超え、罪の問題を根本的に解決する救いの計画でした。つまり、とりなしの祈りをするとき、神様が何を考えておられるのかが少しずつ見えてくるのです。
これはイエスの姿にも見ることができます。十字架の上で、イエス様は自分を苦しめている人々に対して、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」(ルカ23:34)と祈られました。イエスは、人々を裁くことができるお方でした。しかし、裁きではなく、とりなしをされました。また、弟子たちについても、イエスはペテロに、「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」(ルカ22:32)と言われました。イエス様は、ペテロの弱さを知っておられました。しかし、ペテロを見捨てるのではなく、とりなしておられました。
パウロも同じです。ローマ人への手紙9章で、パウロは同胞イスラエルの救いについて、「私自身がキリストから引き離されて、呪われた者となってもよいとさえ思っています」(ローマ9:3)と語っています。これは、自分を正当化して人を裁く姿とは正反対です。愛するからこそ、とりなし、とりなすからこそ、神様の心が分かってくるのです。
私たちも同じです。人の悪いところばかり見ていると、その人を裁くようになります。しかし、その人のために祈り始めると、少しずつ見方が変わってきます。「なぜこの人はこんなことをするのだろう」「この人も苦しんでいるのではないか」「この人にも神様の恵みが必要なのではないか」「神様はこの人を通して何をなさろうとしているのだろう」と考えるようになります。そのとき、私たちは自分の思いではなく、神様の思いに近づき、自分が考えていた以上に大きな神様の御心、神様の計画、神様の思いが見えてくるのです。主よ、あの人を変えてください」と祈る前に、「主よ、まず私を変えてください」と祈る者になりましょう。私たちも、御言葉を聞いてとりなす者になりましょう。
②とりなしの祈りは未来に繋がる。
ダニエルのとりなしを通して、神様は後の世代にまで及ぶ御計画を明らかにされました。同じように、私たちのとりなしも、私たちの世代だけで終わるとは限りません。今日、御言葉を聞いて悔い改め、とりなす私たちの祈りを、神様は次の世代の祝福のためにも用いてくださるのです。
ここで私たちの2026年の教会の標語を思い出したいと思います。「誇るよりも、憐れむ教会を目指します」。私たちが言う「憐れむ」とは、決して、上から下を見て、「かわいそうだ」と憐れむことではありません。本当の憐れみとは、その人の横に座ることです。同じ罪人として、その人の隣に座り、同じ方向を向いて、一緒に主を見上げることです。「私はあなたより正しい」と言うのではありません。「私も神様の憐れみが必要な者です。あなたも私も、主の恵みが必要です。だから一緒に主を見上げましょう」と言うのです。これが、ダニエルのとりなしの姿です。これが、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたイエス様の姿です。そして、これが私たちの教会が目指す姿です。
私たちは人を裁くのではなく、とりなす教会です。人の上に立つのではなく、その人の横に座る教会です。そして、共に主を見上げる教会です。そうすることで、私たちの教会は未来に繋がる教会になることができるのです。2026年も残り4ヶ月ですが、私たちの教会がそのような教会を目指していることを忘れないでください。
4。まとめ
80歳を過ぎたダニエルは、御言葉を思い出し、とりなしの祈りによって、神様の思いを知るようになりました。その時受け取った言葉を、560年後のイエスは人々に伝えました。そして危機に陥った人々がその言葉を思い出し、エルサレムを脱出して助かりました。私たちの、自分を高める祈りではなく、とりなして祈る姿を神様は喜び、用いてくださいます。その祈りの影響は、私たちだけで終わるのではなく、次の世代にも繋がっていきます。誇るよりも憐れみ、裁くよりもとりなし、神様の御心を求める教会となりましょう。

