20260816散らされた教会(使徒8:1-4)📺
20260816日本語礼拝
聖書:使徒8:1-4
題目:散らされた教会
賛美:91、499、498
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。 その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。 信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。 ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。 さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。」
使徒行伝 8:1-4 口語訳
1。「もし、教会がなくなったら?」
皆さんに一つ質問をしたいと思います。「もし明日から、この教会に集まることができなくなったら、私たちの信仰はどうなるでしょうか?」日曜日にここへ来ることができない。
礼拝堂に集まることができない。いつもの兄弟姉妹と一緒に賛美することができない。そのような状況になったら、私たちはどうするでしょうか。「教会に集まれないから、信仰生活もできません」となるでしょうか。
今日の使徒の働き8章は、まさにそのような教会の危機を表しています。しかし、ここで驚かされるのは、教会が迫害によって消えてしまったのではないということです。むしろ、人々が散らされたことによって、イエスの御言葉が成就し、福音が広がっていったのです。今日の本文は、私たちがどのように考え、どのようにすべきかを教えています。
2。本文解説
① 「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。」(1)
サウロという若者が登場しますが、ステパノに石を投げる人々の上着を預かってた人物です。そして「賛成していた」と翻訳されている「スンヨドケオ」という言葉は「共にする事を喜ぶ」という意味があります。つまりサウロは、「仕方がないから黙っていた」のでも、単に「反対しなかった」だけでもありません。ステパノを殺すことを積極的に支持していた事がわかります。
②「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、」(1)
ステパノが殺された日、サウロは激しく教会を攻撃し始めました。かつての師であるガマリエルは、「彼らが人間から出たものなら自滅する。しかし、もし神から出たものなら、滅ぼすことはできない。神を敵に回すことになるかも知れない」(使徒5:38−39)と言って、教会に対する態度に慎重であるべきだと人々に忠告していました。しかし、サウロは逆に、積極的に攻撃を始めたのです。
③「使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った」(1)
攻撃の結果、使徒以外の一般の信徒たちがエルサレムから散らされました。使徒たちは教会を守るために残ったのかも知れません。そして、信徒たちはユダヤだけでなく、通りたくないほど嫌っていたサマリヤ地方にまで散らされてしまいました。
④「信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ」(2)
ステパノが殺され、大迫害が始まりました。普通なら、自分も殺されるかもしれないと考えるでしょう。しかし、敬虔な人々はステパノの遺体を埋葬しました。これは簡単なことではありません。ステパノは、単なる事故死ではなく、神殿の敵と見なされ、私刑で殺された人物です。ですから、ステパノと関係していること自体が危険だった可能性があります。それでも彼らは、ステパノを埋葬し、彼のために大いに悲しみました。教会とは、単に同じ場所に集まる人々ではなく、兄弟姉妹を見て、自分のことのように悲しむ共同体である事がわかります。
⑤「ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒らし回った」(3)
ステパノを埋葬する教会の人々を見ても、サウロは攻撃の手を緩めませんでした。教会として使っている信徒たちの家々に入っていき、男女構わず捕まえ、牢屋に入れました。「教会を荒らし回った」という表現は非常に強い言葉です。サウロは教会を破壊しようとしていたのです。信徒たちは集まって礼拝することができなくなっていきました。人間の目から見るなら、教会の敗北です。
⑥「さて、散らされて行った人たちは、御言葉を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」(4)
しかし神様は、そこから別のことを始められました。迫害によって散らされた信徒たちは、ただ逃げるだけではなく、福音を伝えながら出て行ったのです。散らされましたが、沈黙しませんでした。逃げましたが、福音を捨てませんでした。住む場所や生活スタイルが変わっても、変わらず御言葉を伝え続けました。これが教会です。教会は建物ではありません。教会は、御言葉によって救われ、キリストに属する人々です。だから、建物から追い出されても教会はなくなりませんでした。
むしろ散らされたところから、宣教という教会の使命が始まりました。これは大きな逆転です。迫害する側は、教会を小さくしようとしましたが、神様はその迫害を用いて教会を広げました。この後を読むと、ステパノと同じように7人の執事に選ばれたピリポが、宣教活動で大きく活躍します。人間は「散らした」と考えましたが、神様は「広げた」のです。ここに神の摂理があります。
3。適用
① 教会には「集まる時」と「散らされる時」がある。
私たちは教会に集まります。礼拝するため、御言葉を聞くため、互いに励まし合って祈るため、交流するため、宣教するためです。教会が集まることは大切です。しかし、教会は集まるためだけに存在しているのではありません。教会には、集まる時があり、散らされる時があります。
私たちは教会に集まると安心します。知っている人がいる。自分を理解してくれる人がいる。同じ価値観を持っている。それは素晴らしいことです。しかし、それだけを求めて教会に集まり続けるなら、教会は「自分たちの快適な信仰生活」のための場所になってしまいます。教会は快適に過ごすためだけのクラブのような場所ではありません。神様から恵みを受け、そしてその恵みを持って外へ遣わされる場所でもあるのです。
一部の信徒たちは自分の教会の大きさや成功を誇ります。確かに集まることは必要です。しかし、集まることだけを続けるなら、「私たちが楽しい」「私たちが満足している」「私たちが祝福されている」それだけになってしまいます。そして、伝道や宣教という使命を忘れてしまいます。
そんな時、神様は時に私たちを散らされます。仕事場や学校、家庭や地域、時には外国へ。まだキリストを知らない人々のところへ。散らされることは、敗北ではありません。教会が縮小される事を恐れてはいけないのです。御言葉を持って散らされる時、それは神様の計画が進む事を意味します。サウロの大迫害によって、人々の目には教会が神殿に敗北したように見えました。しかし、神の国の人々にとっては、神様の計画が進んでいることを目にする機会となりました。イエスは天に昇る前にこのように言いました。
「彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。」
使徒行伝 1:7-8 口語訳
散らされることが、宣教の始まりとなったのです。
② 「散らされる時」も「用いられる時」である。
私たちは、神様から恵みを受けることを喜びます。「神様から何をいただけるだろうか」「教会から何を受けられるだろうか」「どんな祝福があるだろうか」と考えます。もちろん、神様の恵みを受けることは大切です。しかし、信仰生活は「受けること」だけではありません。神様が私たちを散らされる時があります。その時、誰のために何を手放し、どこへ遣わされるのかを考えなければなりません。
初代教会の信徒たちは、迫害によって住む場所を失いました。しかし、彼らは散らされた場所で御言葉を伝えました。彼らにとって、散らされることは信仰の敗北ではありませんでした。むしろ、福音を別の場所へ運ぶための神様の導きとなりました。大切なのは、「何を受け取ったか」ではなく、それを「何に用いるのか」です。
聖霊も同じです。聖霊は、私たちが「私は聖霊を受けた」「私はこんな経験をした」「私はこんな祝福を受けた」と自慢するために与えられるのではありません。聖霊によって、私たちはキリストの証人として遣わされるのです。使徒の働き8章の後半では、サマリアの人々が聖霊を受ける場面が出てきます。一方で、聖霊を自分の力や資格として利用しようとした魔術師シモンの姿も出てきます。聖霊は自分のために所有するものではなく、キリストを証しするために与えられるものです。
ですから、私たちが問うべきなのは、「私はどんな恵みを受けたのか」だけではありません。「聖霊によって、私は誰にキリストを伝えるのか」ということです。聖霊によって満たされた人は、自分のところに人を集めるだけではありません。キリストを伝えるために、自分自身が遣わされていきます。イエス様は、ルカ12章で、財産をたくさん蓄えた金持ちにこう言われました。
「すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。」
ルカによる福音書 12:20 口語訳
この人は、たくさんのものを持っていました。しかし、問題は何を持っていたかではありません。与えられたものを何のために使ったのかということです。私たちも同じです。神様から与えられた時間、能力、お金、経験、仕事、家庭、そして信仰は、自分のためだけに蓄えるのではなく、神様のため、人々のために用いるよう与えられていることを忘れてはいけません。
③私たちは「この世」ではなく「神の国」の価値観で生きている。
ここで、私たちはこの世の価値観と神の国の価値観との違いを知っておかなければいけません。この世では、お金持ちになること、長生きすること、人々に認められることが大切にされます。もちろん、お金も健康も成功も大切です。しかし、それが人生の最終目的ではありません。私たちには、この地上の人生の後に永遠があります。私たちの最終的な願いは、主から「忠実な良いしもべだ。よくやった。主人の喜びをともに喜んでくれ」と迎えていただくことです。
学校の勉強も同じです。この世は、どれだけ勉強したか、どれだけ有名な大学に入ったかで人々は評価します。しかし、神様はそこで評価しません。それだけ勉強できる環境や能力を与えた神様に対して、人々に対して何をするのかを、神様は評価します。与えられた環境や能力を自分の力だとして誇るのなら、神の国の価値観では「高慢」という罪になります。
そのため、時には世の価値観と私たちの信仰がぶつかることがあります。避けては通れません。すべての人と仲良くすることは素晴らしいことです。しかし、「仲良くすること」と「妥協すること」は違います。教会はできる限り衝突を避けるべきですが、キリストに忠実であろうとするなら、どうしても世とぶつかる部分が出てきます。教会の目的は、世に合わせることではありません。キリストに忠実であることです。
③辻啓蔵牧師とその家族
日本の教会の歴史を見ると、非常に重い教訓があります。第二次世界大戦中、日本のキリスト教会は国家の圧力の中で、戦争協力の道を選びました。当時のキリスト教指導者たちが伊勢神宮を参拝したことも歴史資料に残っています。それは、単に日本政府を恐れる以上に、迫害から教会を守り、信徒を守るための判断でした。確かに教会は守られましたが、本当の礼拝は失われました。教会の建物や制度を守ることと、信仰を守ることは、同じではありません。
一方で、戦時中、信仰を守るために大きな犠牲を払った牧師たちもいました。ホーリネス教会の辻啓蔵牧師は1942年に治安維持法違反で逮捕され、教会は解散を命じられました。そして辻牧師は約2年半の収監の後、1945年1月18日に青森刑務所で獄死しました。教会が解散させられ、信徒たちも散らされました。牧師の家族は社会的にも経済的にも非常に苦しい状況に置かれました。しかし、その息子である辻宣道氏は、やがて牧師となりました。後に彼は「生涯信仰を捨てない人をつくる」ことを教会形成の基本として歩んだと紹介されています。
ここには、とても重い信仰の証しがあります。もし父親が世間から認められ、成功して、立派な牧師として尊敬されている姿を見て、「私も父のようになりたい」と思ったのなら、それは理解できます。しかし、父親が信仰のために苦しみ、逮捕され、家族まで苦しみ、世間から見捨てられる姿を見ながら、それでも自分も牧師になりたいと思った。これは、世の価値観だけでは説明できません。そこには信仰があります。そこには、「この世で何を得るか」ではなく、「神の前でどう生きるか」という価値観があります。
4。まとめ
私たちは、散らされることを恐れてはいないでしょうか。使徒の働き8章は、散らされた教会が敗北したのではなく、散らされた先で福音を広げた教会の姿を教えています。散らされるということは、この世の価値観では「敗北」でも、神の国の価値観では「敗北」ではありません。散らされる事を恐れないでください。
初代教会が、散らされた先で神の御業を目撃したように、私たちも御言葉を持っていれば、散らされた先で私たちは神の御業の目撃者となるでしょう。だから、どこへ散らされても、そこで神様が大きな御業を始めてくださることを信じて、あきらめずに歩み続けましょう。


