20261010バルナバ―慰めの子(使徒11:22-26)
20261010土曜祈祷会
聖書:使徒11:22-26
題目:バルナバ―慰めの子
賛美:325
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。 彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。 彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。 そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、 彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。」
使徒行伝 11:22-26 口語訳
1。バルナバは「慰めの子」と呼ばれた人
バルナバという名前を聞くと、私たちは使徒パウロの名前を思い浮かべることが多いと思います。しかし、パウロが大きな宣教者として知られるようになる前から、バルナバは教会の中で大切な働きをしていました。使徒行伝4章36節には、「クプロ生れのレビ人で、使徒たちにバルナバ、すなわち『慰めの子』と呼ばれていたヨセフ」とあります。本当の名前はヨセフです。しかし教会の人々は彼を「バルナバ」と呼びました。「慰めの子」という意味です。これは、単に「優しい人だった」という意味だけではありません。落ち込んでいる人を励ます。失敗した人にもう一度機会を与える。一人では立ち上がれない人のそばに立つ。人と人との間に立って、関係をつなぐ。そのような生き方をしていたので、「慰めの子」と呼ばれたのではないでしょうか。
2。バルナバは「人を生かす人」だった
バルナバの特徴を見るために、三人の人物との関係を見てみましょう。
① 貧しい人々との関係
使徒行伝4章では、バルナバは自分の土地を売って、その代金を使徒たちの足もとに置きました。これは、単に「お金をたくさん献げた」という話ではありません。自分が持っているものを、自分だけのために使うのではなく、他の人のために用いたのです。バルナバは、物によって人を助ける人でした。しかし、彼の「人を生かす働き」は、ここからさらに広がっていきます。
② パウロとの関係
パウロは、もともと教会を迫害していた人物でした。ダマスコへの道でキリストに出会い、回心しました。しかし、エルサレムの弟子たちは、すぐにはパウロを信じることができませんでした。「本当に変わったのか」「偽って近づいているのではないか」そう疑ったのです。その時、パウロのために立ったのがバルナバでした。
「ところが、バルナバは彼の世話をして使徒たちのところへ連れて行き、途中で主が彼に現れて語りかけたことや、彼がダマスコでイエスの名を大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた。」
使徒行伝 9:27 口語訳
ここが非常に大切です。バルナバは、まだ誰も信用していないパウロを信じ、教会とパウロの間に立ったのです。もしバルナバがいなかったら、パウロの働きがどうなっていたか分かりません。もちろん、パウロ自身が偉大な宣教者になったのは、神様の恵みによるものです。しかし神様は、そのパウロを立てるために、バルナバという「慰めの子」を用いられました。人を育てる人は、自分が目立たなくてもいいのです。自分が前に出るのではなく、他の人が立ち上がることを喜ぶのです。
③ マルコとの関係
もう一人、バルナバと深い関係を持つ人物がマルコです。使徒行伝15章で、パウロとバルナバは、マルコをもう一度宣教旅行に連れて行くかどうかで激しく対立しました。パウロは、以前パンフリヤで一行から離れたマルコを連れて行くことに反対しました。一方、バルナバはマルコを連れて行こうとしました。そして二人は別々に行動することになります。ここだけを見ると、「バルナバはマルコを甘やかしたのではないか」と思うかもしれません。しかし、その後の聖書を見ると、とても興味深いことが分かります。
「ただルカだけが、わたしのもとにいる。マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから。」
テモテへの第二の手紙 4:11 口語訳
最初は「連れて行きたくない」と言われたマルコが、後にはパウロから「役に立つ」と認められる人になりました。これは非常に大きな変化です。もちろん、その成長のすべてをバルナバの功績にすることはできません。マルコ自身の成長もあり、神様の恵みがありました。しかし、マルコがもう一度立ち上がる機会を与えた人の一人が、バルナバだったことは確かです。
3。バルナバは「自分より他人が用いられること」を喜んだ
そして、もう一つバルナバについて考えたいことがあります。使徒行伝11章では、アンテオケ教会で大きな働きが始まります。エルサレム教会は、その知らせを聞いてバルナバを派遣しました。バルナバはアンテオケに行き、そこで神様の恵みを見て喜びました。そして人々を励ましました。すると、大勢の人々が主に加えられました。ここでバルナバがしたことは、「自分が全部やる」ことではありません。彼はタルソへ行き、サウロを探しました。そしてサウロをアンテオケに連れて来ました。ここでもバルナバは、人を生かしています。自分一人で働くのではなく、パウロを連れて来た。そして二人で教会を教えた。さらに後には、バルナバとサウロが宣教旅行へ遣わされます。
ところが、宣教旅行が進むにつれて、聖書の記録の中心は次第に「バルナバとサウロ」から「パウロ」に変わっていきます。バルナバは、自分よりもパウロの名前が大きくなっていくことを受け入れたのです。これは簡単なことではありません。自分が育てた人が、自分より有名になる。自分が紹介した人が、自分より大きな働きをする。自分が支えた人が、自分より前に出ていく。それを喜ぶことができるでしょうか。バルナバは、それができる人でした。だから彼は「慰めの子」だったのです。
4。適用――私たちも「慰めの子」になりましょう
私たちの周りにも、バルナバを必要としている人がいます。失敗して自信を失っている人。教会に来ているけれど、自分には何もできないと思っている人。人から認められず、孤独を感じている人。一度失敗したために、「もう自分には無理だ」と思っている人。その人に必要なのは、批判する人ではなく、もう一度立ち上がることを助ける人です。「あなたにはもう一度できる」「神様はあなたを捨てていない」「一緒にやってみよう」そう言ってくれる人です。
しかし、ここで一つ注意しなければなりません。慰めるということは、何でも肯定することではありません。バルナバも、神様の御言葉を教え、信仰を固く守るように人々を励ました人でした。本当の慰めとは、人を甘やかすことではありません。その人がもう一度神様を見上げ、神様のために立ち上がることができるように助けることです。私たちは、人の弱点を見つけることには慣れています。「あの人はここがダメだ」「あの人は以前こういう失敗をした」「あの人にはこんな問題がある」しかし、バルナバは、その人の過去だけを見ませんでした。神様がその人をどう用いることができるのかを見ました。だからパウロを受け入れました。だからマルコにもう一度機会を与えました。そして、神様がパウロを大きく用いられることを喜びました。
私たちも、大阪中央教会でそのような人になりたいと思います。人を倒す言葉より、人を立たせる言葉を語りましょう。人の失敗を覚えている人ではなく、その人のこれからを祈る人になりましょう。そして、自分より他の人が用いられる時にも、それを喜ぶことのできる人になりましょう。それが「慰めの子」です。
5。まとめ
バルナバは、特別な能力だけで有名になった人ではありません。彼は、人を励ましました。失敗した人に機会を与えました。パウロを教会につなぎました。マルコを見捨てませんでした。そして、自分よりパウロが大きく用いられることを受け入れました。
聖書はバルナバを、「聖霊と信仰とに満ちた、立派な人」と呼んでいます。私たちも、ただ「立派なクリスチャン」になろうとするのではなく、バルナバのように人を生かすクリスチャンになりましょう。
誰かが倒れた時、その人を起こす人。誰かが失敗した時、もう一度立つ機会を与える人。誰かが孤独な時、そばに座る人。誰かが自分より大きく用いられた時、それを喜ぶ人。私たちもバルナバのような、「慰めの子」になりましょう。そして、私たちを通して、一人でも多くの人が神様の恵みによって立ち上がることができますように。


