20260927隣国への裁きの宣告(エゼキエル25:1-7)📺
20260927韓国語礼拝
聖書:エゼキエル25:1-7
題目:隣国への裁きの宣告
賛美:353、356
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「主の言葉がわたしに臨んだ、 「人の子よ、あなたの顔をアンモンの人々に向け、これに向かって預言し、 アンモンの人々に言え。主なる神の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、あなたはわが聖所の汚された時、またイスラエルの地の荒された時、またユダの家が捕え移された時、ああ、それはよい気味であると言った。 それゆえ、わたしはあなたを、東の人々に渡して彼らの所有とする。彼らはあなたのうちに陣営を設け、あなたのうちに住居を造り、あなたのくだものを食べ、あなたの乳を飲む。 わたしはラバを、らくだを飼う所とし、アンモンびとの町々を、羊の伏す所とする。そしてあなたがたは、わたしが主であることを知るようになる。 主なる神はこう言われる、あなたはイスラエルの地に向かって手をうち、足を踏み、心に悪意を満たして喜んだ。 それゆえ、見よ、わたしはわが手をあなたに向けて伸べ、あなたを、もろもろの国民に渡して略奪にあわせ、あなたを、もろもろの民の中から断ち、諸国の中から滅ぼし絶やす。そしてあなたは、わたしが主であることを知るようになる。」
エゼキエル書 25:1-7 口語訳
1。ある姉妹の喧嘩
ある幼い姉妹がいました。妹はいつもわがままで、姉のものを勝手に取っていきます。それを姉が防ごうとすると、妹は姉を叩きます。妹は自分の欲しいものを手に取って喜びながら遊びますが、姉は涙を流して立っています。ある日、このような光景を見かねた母親は、「やられっぱなしでどうするの?」と姉を叱りました。やり返す事を勧めました。それに対して姉は「叩かれたらこんなに痛いのに、妹にやり返すなんて出来ない」と拒否しました。それに対して、皆さんならどのように答えますか?「そんなに弱い心でどうやって生きていくの?」とさらにしかりますか?それとも、その心の優しさを褒めますか?やられたらやり返すのが当たり前の世界で、やり返すことをあきらめる姿は、弱さに見えますが、神様が働かれるのを待つ姿につながる強さにつながるのではないでしょうか?
2。アンモンへの裁きの宣告の意味
エゼキエル25章にはイスラエル(※ここではユダ王国のこと)に隣接する国々に対する裁きの宣告が書かれています。イスラエルから見て北東に位置するアンモン、東に位置するモアブ、南に位置するエドム、西に位置するペリシテの4つです。アンモンはロトの上の娘の子孫であり、モアブはロトの下の娘の子孫であり、エドムはエサウの子孫です。これらはいわばイスラエル人と兄弟関係にあるわけです。それにもかかわらず、イスラエルと絶えず争いを起こしてきました。そしてペリシテは兄弟関係にはありませんが、イスラエルとの関わりが多い国であり、パレスチナの原住民にあたります。
隣国には、一つとしてイスラエルに善意を持っている国はありませんでした。アンモン人はバビロン捕囚の時、「いい気味だ」とイスラエルの不幸を見て喜びました。モアブはイスラエルを神の民として認めませんでした。エドムはバビロンがイスラエルを攻撃するときに一緒になって攻撃してきました。ペリシテはイスラエルを滅ぼそうとしました。
これらの国に対して裁きの宣告をバビロンにいるエゼキエルがしたのです。なぜイスラエルへの預言だけではなく、隣国に対しても預言する必要があったのでしょうか?エゼキエルはバビロンから出ていけないため、わざわざアンモンやモアブに行って、この預言を彼らに聞かせることはできません。あくまでもイスラエルの民が聞くように作られた預言です。なぜ隣の国の裁きの宣告をイスラエルの民が聞かなければならなかったのか?それは、イスラエルがそれらの国に悪意を持って報いようとしているからです。
この宣告の目的は、復讐はイスラエルがするのではなく、神様である私がするということをイスラエルが知るためです。「私が主であることを知るようになる」ためです(25:7)。神様は一つ残らず見張っており、全てを知っています。だからそれらの国に、イスラエルが自ら報復してはいけない、ということなのです。復讐は神様の仕事であり、神様は自分の民に、「やられたからやり返す」他の民のようになってほしくない思いがあるのです。
確かにイスラエルとアンモンには長い対立の歴史があります。イスラエルは、神様からアンモンを攻撃してはならないと命じられた時期もありましたが(申2:19)、後にアンモンがイスラエルを攻撃すると、士師エフタやサウル、ダビデの時代には戦って仕返しすることもありました。しかしエゼキエル25章では、アンモンがイスラエルの災いを見て喜び、嘲笑したことに対して、神ご自身が裁きを宣告されます。つまり、「これまでの恨みがあるから自分で復讐してよい」のではなく、これまでの恨みがあったとしても、最終的な裁きは神様に委ねるということが、イスラエルに求められていることがわかります。
3。やられてもやり返さないが、クリスチャンの目指す姿である。
「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者を断るな。」
マタイによる福音書 5:38-42 口語訳
やられてもやり返さず、愛を持って受け止める、これが福音がもたらす大きな変革です。これまで私たちは「やられたらやり返す」が当たり前でした。むしろそうしないと気分が晴れません。しかしイエスは、右の頬を打つなら、他の頬(つまり左の頬)をも差し出すよう教えています。この世ではありえない教えです。
ここで疑問が出てきます。なぜ右の頬が最初なのでしょうか?普通、右ききの人が右の手のひらで相手の頬を叩くなら左の頬になるはずです。イエスが言い間違えたのでしょうか?右手で右の頬を叩くということは、手のひらではなく手の甲で叩くことを意味します。この場合単なる暴力だけではなく、古代の文化的背景から、侮辱・屈辱を受ける場面を想定していると理解されることがあります。つまり、相手から侮辱されたとしても、やり返すなという意味です。
次に、なぜ下着が最初なのでしょうか?普通、服を取ろうとすれば、上着から脱ぐはずです。もちろんイエスが言い間違えたのではありません。ここで言う下着とは、肌につけて着る普段服であり、上着は上に羽織る服になります。そして「あなたを訴えて」とあるので、これは裁判での話になります。誰かが裁判であなたの下着を取り上げようとするのなら、それを守ろうとするのではなく、相手の取ろうとしていない上着までも与えなさい服を取られただけでも恥ずかしくて悔しいのに、さらに上質の上着まで与えなさいと言っているのです。つまり、自分の権利を主張して相手と争い続けるよりも、自分から手放すことで、復讐の連鎖を断ちなさいという意味です。
では三つ目に、なぜイエスは、「あなたをしいて一里行かせようとする者と、二里行きなさい」と言われました。当時、ローマ帝国の支配下では、兵士などが一般の人に荷物を運ばせることがありました。つまり、「一里行かせる」というのは、自分が望んで行くのではなく、相手から強制されて行くということです。実際、イエスが十字架につけられるときも、ローマ兵たちはクレネ人シモンに十字架を担がせています。普通なら「なぜ私がこんなことをしなければならないのか」と不満になります。しかしイエスは「一里だけでなく、二里行きなさい」と言われました。これは、嫌なことを何でも我慢しなさいという意味ではありません。強制された一里を、もう一里は自分の意志で歩きなさいと言う意味です。
ここにも福音による大きな変化があります。「やらされたから仕方なくする」のではなく、「私は神様の子どもだから、復讐するのではなく、自分から善を選ぶ」のです。相手に支配されて、仕方なく左頬を差し出し、上着も与え、さらに一里を歩くのではありません。神様に心を支配されて行うのです。どれも、この世の価値観とは反対です。しかし、これこそイエスがもたらされた新しい生き方です。悪に悪を返すのではなく、復讐を神様に委ね、自分は愛することを選ぶのです。たとえ今はそう出来なくても、落ち込む必要はありません。ましてや人を責めたりする必要もありません。御言葉で私たちは少しずつ変えられていきます。
4。最後に
今日は、アンモンに対する神様の裁きの宣告を読みました。ここには、自分の民に、復讐は神様がするから、イスラエルには復讐者になって罪を犯し、人生を無駄にしてほしくない、という神様の父なる思いがあります。復讐は必ず神様がします。アンモンのような親族だろうが、ペリシテのような他人だろうが裁きは等しく行われます。だから心配せずに復讐は神様に任せてください。同じ悩むなら、どのようにして復讐しようかではなく、どのようにして復讐する心から解放されようかを考えてください。たとえ世の人からは馬鹿にされたとしても、復讐する人になるのではなく、愛する人になることが、誰よりも私たちの父なる神様が喜ぶことだと信じてください。

