20260920祈ることしかできない教会(使徒12:1-5)📺
20260920日本語礼拝
聖書:使徒12:1-5
題目:祈ることしかできない教会
賛美:96、361、365
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、 ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した。 そして、それがユダヤ人たちの意にかなったのを見て、さらにペテロをも捕えにかかった。それは除酵祭の時のことであった。 ヘロデはペテロを捕えて獄に投じ、四人一組の兵卒四組に引き渡して、見張りをさせておいた。過越の祭のあとで、彼を民衆の前に引き出すつもりであったのである。 こうして、ペテロは獄に入れられていた。教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた。」
使徒行伝 12:1-5 口語訳
1。ヘロデ・アグリッパ1世の姿
ここで登場するヘロデは、ヘロデ大王の孫で、ヘロデ・アグリッパ1世のことです。彼は若い時からローマで、皇帝一族との関係を築いていました。特にカリグラとは友人関係にあり、37年にカリグラが皇帝に即位した際、ヘロデは釈放されると同時に、王の称号と、かつてのヘロデ・ピリポの領土を与えられました。39年にはヘロデ・アンティパスがパルティアと結託して反乱を企てていると告発して失脚させ、その領土であるガラリヤとペレアも与えられました。41年にはカリグラ帝が暗殺されますが、ヘロデはこの時、クラウディウスと元老院との間を取り持ち、クラウディウスの皇帝の即位を支えた重要な人物となりました。その結果、ユダヤとサマリヤも領土として与えられました。その結果、ヘロデは祖父のヘロデ大王に匹敵するほどの広大な領土を支配するようになったのです。
このヘロデは自分の支配を確かなものとするため、ユダヤ人の支持を得るための行動に出ました。それがユダヤ人たちが強く反発している教会への迫害でした。そして、使徒ヤコブ(ヨハネの兄弟)を捕えて斬首してしまいます。原則としては、ローマの統治下で勝手に死刑を執行することは大問題です。しかし、この時のヘロデの行動は問題視されていません。それだけローマに信頼されている事がわかります。ヤコブの死はユダヤ人たちにとって嬉しい事件でした。自分たちの王であるヘロデが、自ら進んで教会を迫害したのですから、自分たちもこれまで以上に堂々と迫害する事ができます。ヘロデは、ユダヤ人たちが喜ぶのを見て、これならユダヤ人たちの支持を得られると判断し、次にペテロを逮捕しました。
2。ペテロと教会の姿
ペテロは厳重に牢屋に入れられました。16人の兵士が見張りをし、二重の鎖に繋がれ、寝る時も左右に兵士がつきっきりの状態です。完全に逃げ場がありません。イエスの特に愛した3人のうちの1人であるヤコブに続いてペテロまでも…?エルサレム教会に、大きな衝撃が走りました。日本語では翻訳されていませんが、原文のギリシャ語では、「ペテロは獄に入れられていた」と「教会では、彼のために熱心な祈りが神に捧げられた」の間に「しかし」が入っています。使徒が次々と捕えられ、処刑されようとしています。「しかし」、それにもかかわらず、教会は祈ることしかできなかったのです。署名を集めてローマ皇帝に嘆願書を出すこともできませんでした。大祭司やサンヘドリンに働きかけることもできませんでした。有名な弁護士を雇って裁判で戦うこともできませんでした。この時代の教会は今の時代よりも本当に無力でした。祈ることしかできなかったのです。
しかしその後、祈るしかできなかった教会はどうなったでしょうか?ペテロは天使に助けられて脱出し、教会の人々の前に現れました。そしてあれほどの力を持っていたヘロデは、神様の罰を受けて命を落としました。どうしてこうなったのでしょうか?望み得ないような絶望的な状況の中でも、望みつつ神様を信じて祈る教会を、神様が助けたのです。ここに信仰があります。私たちは信仰によって、どんなに絶望的な状況でもあきらめず、望みつつ祈る事ができるのです。ただ、初代教会の信仰も完璧ではありませんでした。奇跡的にペテロが脱出してきたという事実を、教会の人々は最初、誰も信じる事ができませんでした。その事実を人々に伝えたロダという女性のことを、教会の人々は「あなたは気が狂っている」といって信じようとしなかったのです。この出来事は、教会がなくしてはいけない大切なものを教えています。それは、望み得ない状況でも望みつつ祈ることです。そして神様はあきらめずに祈り続ける教会に奇跡を見せてくだいました。重要なのは、世の中的には、教会が祈ることしかできないような弱い存在ですが、祈ることでこそ、この世の中を超える力が働く強い存在だということです。
3。適用
①教会の強さとは、祈り続けることです。
私たちは、初代教会より強い教会でしょうか、弱い教会でしょうか。現代の教会には人がいます。お金もあります。知識もあります。建物もあります。社会的な影響力も、当時よりはるかにあります。この世的には、初代教会よりはるかに強いかもしれません。しかし、信仰においてはどうでしょうか。望み得ないような状況になった時にも、「それでも神様は働かれる」と信じ、祈り続けることができるでしょうか。初代教会は、今の教会よりもはるかに弱い立場にありましたが、希望を失いませんでした。
教会は、この世に対して弱くてもかまいません。しかし、神様への望みを失ってはいけません。それが使徒12章から私たちが学ぶ大切なことです。ヤコブが殺されても、ペテロが捕らえられても、教会には何もできませんでした。初代教会は祈ることしかできませんでした。この世的には弱い存在でした。政治的な力も、軍事力も、経済力もありませんでした。しかし逆を言えば、祈りが溢れていました。これが初代教会の姿です。祈ることをやめなかった事こそが初代教会の強さです。
私たちは、教会が強くならなければならないと思ってしまいます。人数が増えなければならない。お金がなければならない。社会的な影響力を持たなければならない。世の中に認められなければならない。もちろん、それらを神様から与えられたものとして用いることはできます。しかし、それらが教会の強さそのものではありません。だから祈りました。そして、祈ることをやめませんでした。ここに教会の本当の強さがあります。
②祈り続けるとは、神様を信頼し続けることです。
ヘロデはヤコブを処刑しました。そしてユダヤ人の反応を見て、それが彼らに喜ばれることを知り、さらにペテロを捕らえました。ヘロデを通して、この世の人の姿が見えます。神様を無視し、人に頼る姿です。ヘロデはローマの皇帝に頼り、ユダヤ人に頼り、自分の力を頼りました。ユダヤ人の王でありながら、形だけの信仰心しかありませんでした。一方でペテロやエルサレム教会の人々は、人の評価よりも神様の御心を見ようとしました。「ヘロデには勝てない」と教会を閉じることをせず、「ヤコブが殺されたから、祈っても意味がない」と言わず、ペテロが捕らえられても祈り続けました。それは、人を頼ろうとするのではなく、神様を信頼し続けた証です。そしてその祈りが神様への信頼をさらに強くします。
確かにエルサレム教会の人々は、祈りが叶えられてもすぐに受け入れられなかった弱さがありました。ペテロが戻ってきたと聞いた時でさえ、最初は信じることができませんでした。しかし、それでも彼らは祈り続けていました。ここで大切なのは、彼らの信仰が完璧かどうかということではありません。大切なのは弱さがあっても、神様への信頼を第一にする強さがあったという事です。
私たちも同じです。祈ってもすぐに答えが見えないことがあります。願っていたことと違うことが起こることもあります。祈っていたのに、ヤコブのように大切な人を失うことさえあります。その時、「祈っても意味がない」と考えないでください。祈り続けるということは、「必ず自分の願い通りになる」と信じることではありません。「結果がどうであっても、神様は私たちを見捨てておられない」と信頼し続けることです。だからこそ、祈り続けることは、あきらめず神様に信頼し続けている証なのです。
③最後は神様だと信じ、望み続ける教会になりましょう。
この世的な強さは、必要ならば神様から与えられます。自分たちで強くなろうとしなくても大丈夫です。しかし、望みを失ってはいけません。初代教会は、ヤコブを失いました。ペテロも失うかもしれませんでした。目の前にはヘロデという圧倒的な権力がありました。それでも祈りました。なぜなら、彼らは、「ヘロデが最後ではない」と知っていたからです。王が最後ではありません。牢獄が最後ではありません。死が最後ではありません。神様が最後なのです。だから、望み得ない時にも望み、祈ることができるのです。
ある人々は、「神様はなぜペテロを助けて、ヤコブを助けなかったのか」と考えるでしょう。しかし、この質問には大切な真理が抜けています。それは、教会にとって死が最後ではないという真理です。教会にとっての最後は神様です。死は通過点でしかありません。私たちはイエス・キリストにあって、死んでもよみがえるからです。人から見たら、この短い期間だけを見れば、ヤコブは失敗の人生で、ペテロは成功の人生のように見えるかもしれません。しかし、それは真実ではありません。ヤコブは使徒の中でも真っ先に殉教しました。しかし、ヨハネを除いた使徒たちは、伝承によれば殉教したとされています。では、ヨハネだけが成功の人生で、それ以外の使徒はすべて失敗の人生だと言えるのでしょうか。そうではありません。
何が成功で、何が失敗なのか、私たちは考えなければいけません。寿命をまっとうしたら成功の人生でしょうか。事故や病気で亡くなれば失敗の人生でしょうか。そうではありません。教会にとっての成功とは、この世で長く生きることでも、人から認められることでも、目に見える結果を残すことでもありません。教会にとっての成功は神様が最後になることです。最後が神様になることだけでも、私たちは世の人が手にすることのできない大きな成功を手に入れたと言えるのです。
4。最後に
使徒12章には、ヤコブ、ペテロ、ヘロデという三人が登場しました。ヤコブは殺されました。ペテロは牢に入れられました。ヘロデは権力を握っていました。人間の目で見れば、ヘロデが一番強かったように見えます。しかし、最後に残ったのはヘロデではありません。「主の言はますます盛んになり、広まって行った。」これが使徒12章の結論です。ヤコブが死んでも、神の働きは止まりませんでした。ペテロが捕らえられても、神の働きは止まりませんでした。ヘロデが妨げても、神の働きは止まりませんでした。
私たち大阪中央教会は、世の中から見れば小さくて、弱くて、力がない存在です。人々は祈ることしかできないと嘲笑うかもしれません。実際に祈ることしかできない場合があります。しかし、落ち込む必要はありません。教会が弱くても、神様は弱くありません。私たちに力がなくても、神様に力がないわけではありません。私たちには道が見えなくても、神様には道があります。だから私たちは、持っているものがなくても、「神様が働かれる」という希望だけは失わず祈り続ける教会になることを共に目指しましょう。

