20260830異邦人コルネリオの救い(使徒10:15)📺
20260830日本語礼拝
聖書:使徒10:15
題目:異邦人コルネリオの救い
賛美:93、505、516
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。」
使徒行伝 10:15 口語訳
1。ユダヤ人と異邦人の間にあった壁
今日の聖書を理解するためには、まず当時のユダヤ人と異邦人との関係を理解する必要があります。私たちは、ペテロがコルネリオの家に入ったという記事を、何気なく読んでしまうかもしれません。しかし、当時の人々にとっては、これは非常に大きな出来事でした。なぜなら、ユダヤ人と異邦人の間には、非常に大きな壁があったからです。ユダヤ人は、自分たちは神様から選ばれた民であると知っていました。神様から律法を与えられました。割礼を受けました。安息日を守りました。食べ物についての規定もありました。それは、偶像礼拝から「自分を神様の前に清く保つ」ためでした。
問題は、その「清さを守る」という意識が、次第に、「汚れた人とは交わらない」という方向へ強くなっていったことです。異邦人の家に入ること、異邦人と食事をすること、異邦人と親しく交わること、そういうことを避けるようになりました。ユダヤ人にとって異邦人は、単に「外国人」ではありません。信仰的にも、自分たちとは違う存在でした。だから、ペテロとコルネリオの間には、非常に大きな壁がありました。ペテロはユダヤ人です。コルネリオはローマ人です。ペテロはキリストの使徒です。コルネリオはローマ軍の百人隊長です。しかも、ローマはイスラエルを支配していました。ですから、民族の壁だけではなく、宗教の壁、文化の壁、政治的な壁が、二人の間にありました。
ところが、使徒10章では、神様がその壁を一つずつ壊していかれます。コルネリオに語りかけます。ペテロにも語りかけます。そして最後には、ユダヤ人と異邦人が一つの場所に集まり、同じ福音を聞き、同じ聖霊を受けることになります。今日の中心となる御言葉は、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」という言葉です。これは、単に食べ物についての話ではありません。神様が、「あなたが今まで人間の基準で分けていた人々を、私が救い、私の教会に迎え入れる」ということを、ペテロに教えておられるのです。今日は使徒10章全体を通して、異邦人コルネリオの救いから、神様がどのような教会を造ろうとしておられるのかを考えてみたいと思います。
2。本文解説
① コルネリオに神様が働かれた(1-8)
まず、コルネリオが登場します。彼はカイサリアに住むローマ軍の百人隊長でした。しかし聖書は、彼の軍事的な立場以上に、彼の信仰的な姿を紹介しています。「彼は敬虔な人で、家族一同とともに神を恐れ、民に多くの施しをなし、いつも神に祈っていた」と。非常に興味深い人物です。ローマ軍人でありながら、神様を恐れていました。しかも自分だけではありません。「家族一同とともに神を恐れた」とあります。さらに、多くの施しをし、いつも神に祈っていました。
そしてある日、御使いが彼に現れます。「あなたの祈りと施しは、神の前に上って、覚えられている」と。そして、「ヨッパに人を遣わして、シモンと呼ばれるペテロを招きなさい」と命じられます。コルネリオは、その言葉に従います。ここで大切なのは、神様が最初にコルネリオの側で働いておられたということです。コルネリオが自分の力でペテロを見つけたのではありません。神様がコルネリオに語りかけ、ペテロとの出会いを準備されたのです。
② ペテロに神様が働かれた(9-23)
次にペテロです。コルネリオに語られた神様は、同時にペテロにも働かれます。ペテロが祈るために屋上に上っていたとき、幻を見ます。天が開き、大きな布のようなものが降りてきます。その中には、ユダヤ人が食べてはいけないと考えていた動物がいました。そして声がします。「ペテロ。立ち上がり、ほふって食べなさい」と。ペテロは答えます。「主よ、とんでもないことです。私は、きよくない物、汚れた物を一度も食べたことがありません」。すると神様が言われます。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」。そして、このことが三度繰り返されます。
なぜ三度なのでしょうか。ペテロの心に、それほど強い思い込みがあったからではないでしょうか。ペテロはユダヤ人として、「これはきよい」「これは汚れている」という区別を教えられてきました。ところが神様は、ペテロの考え方を変えようとされます。ここで重要なのは、神様が「何でも好きにしてよい」と教えているのではないということです。神様が問題にしているのは、「神がきよめたものを、人間が汚れていると決めつけてはいけない」ということです。そしてペテロがこの幻について思い巡らしているところへ、ちょうどコルネリオから遣わされた人々がやって来ます。聖霊がペテロに、「さあ、立って、彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです」と語ります。ここでペテロは彼らを迎え入れます。そして翌日、一緒にカイサリアへ向かいます。
③ ペテロ、コルネリオの家へ行く(24-43)
いよいよペテロはコルネリオの家に入ります。これは非常に大きな出来事です。ペテロ自身が「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、その家を訪問したりすることは、律法にかなっていません」と言っています。つまりペテロ自身が、「私は今まで外国人の家に入ることを避けていました」と認めています。しかし続けて、「しかし、神は私に、どんな人のことでも、きよくない者、汚れた者と言ってはならないことを示してくださいました」と言います。ペテロの考えが変わったのです。自分の感覚によって人を見るのではなく、神様がその人をどう見ておられるのかを見るようになったのです。
そしてペテロはコルネリオの家にいる人々に福音を語ります。イエス・キリストについて語ります。イエス様が地上で何をされたのか。十字架にかかられたこと。三日目によみがえられたこと。そして、この方によって罪の赦しが与えられることを語ります。そしてペテロは重要なことを言います。「神は人をえこひいきすることがない」。これは、この章の重要な言葉です。神様はユダヤ人だけを救われるのではありません。ローマ人だから救われないということでもありません。民族によって救いを区別されません。イエス・キリストによる救いは、すべての人に開かれているのです。
④ 異邦人に聖霊が降る(44-48)
そして、ペテロがまだ話している途中でした。そのとき、「みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊がお下りになった」のです。ユダヤ人ではありません。異邦人です。コルネリオと、その家に集まっていた人々に聖霊が降りました。ペテロと一緒に来たユダヤ人たちは驚きます。なぜなら、「異邦人にも聖霊の賜物が注がれた」ことが明らかになったからです。ここで人間には、もう何も言えません。神様ご自身が、「この人々も私の民である」ことを示されたからです。
そしてペテロは言います。「この人々が私たちと同じように聖霊を受けたのだから、誰が水を用いてバプテスマを受けることを妨げることができるでしょうか」と。そしてコルネリオたちはバプテスマを受けます。ここで起こったのは、一人の異邦人が救われたというだけではありません。教会の境界線が大きく広げられたのです。
ペンテコステ以降、福音はまずエルサレムのユダヤ人を中心に広がりました。その後、サウロの大迫害によってサマリアへ広がり、エチオピア人にも福音が伝えられました。そして今、ローマ人コルネリオにまで福音が届きます。イエス様が言われた、「地の果てまで、わたしの証人となります」という御言葉が、現実に進んでいくのです。しかし、このためには大きな障害がありました。その最大の障害の一つが、人間の心の中にある境界線でした。神様は、その境界線を越えていかれたのです。
3。適用
① 私たちは神様の前に退き、遣わされる聖徒です。
コルネリオの救いの出来事は、私たちが神様の前に退くこと、そして人々のところへ遣わされること、この両方が大切であることを教えています。コルネリオも祈っていました。そしてペテロも、祈るために屋上に上っていました。この二人が神様の前にいるところから、この大きな出来事が始まっています。ペテロは祈っているときに幻を見ました。そして神様から新しい使命を与えられました。「立って、ためらわないで、彼らと一緒に行きなさい」と。つまり、ペテロは祈るために退き、遣わされるために立ち上がったのです。
イエスもそうでした。イエスはよく、1人で神様の前に退いて、祈っていました(マタイ14:23、マルコ1:35、ルカ5:16)。そして、人々の中に遣わされていました。遊女や取税人、罪人と一緒に行動していたため、人々から汚れていると批判を受けました。しかし、人々の罪の影響を受けずに、福音を伝えることができたのは、神様と交わる時間を大切にしていたからです。遣わされて人々と共にいる時間も大切ですが、神様の前に退く1人の時間も大切なのです。
私たちも同じです。神様と交わるために退きます。祈り、御言葉を読み、礼拝します。神様の前で自分を整えます。しかし、それで終わりではありません。神様は私たちを、もう一度人々のところへ遣わされます。家族のところへ。職場や学校、地域など、まだキリストを知らない人々のところへ。クリスチャンは、この世から逃げるために救われたのではありません。他の人々の救いのために先に救われたのです。しかし、退かずに外へ出て行けば、私たちは世の中に巻き込まれてしまいます。そして、退いてばかりで外へ出て行かなければ、宣教の使命を果たせません。ですから、「退くこと」と「遣わされること」この二つが私たちの信仰生活に大切に大切であるということを覚えましょう。
② 私たちは来るものを拒まない教会です。
次に、私たちの教会の姿を考えたいと思います。使徒10章で大きな変化が起こりました。今までユダヤ人と異邦人の間には、大きな壁がありました。しかしペテロは、その壁を越えてコルネリオの家に入りました。ペテロ自身が、「ユダヤ人が外国人と交際したり、その家を訪問したりすることは、律法にかなっていません」と言っています。しかし、そのペテロがコルネリオの家に入ったのです。なぜでしょうか。神様が彼を遣わされたからです。そして、その家で福音が語られ、異邦人に聖霊が降りました。これは、一人のローマ人が救われたというだけの出来事ではありません。教会そのものの姿が変えられた出来事です。
イエスも「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません」と弟子たちを叱りました(マルコ10:14)。また、「父がわたしにお与えになる者は皆、わたしのところに来る。わたしのところに来る者を、わたしは決して追い出さない」とも言いました(ヨハネ6:37)。自ら去って行く人はいても、イエスは人をふさわしくないと追い出す事はしませんでした。
ですから、私たち大阪中央教会も同じように、「来るものを拒まない教会」でありたいと思います。言葉の壁があるから、子供だから、問題のある人だから、そう言った理由で拒む事はできません。なぜなら私たち自身も、完全な人間だから教会にいるわけではないのですから。私たちも神様の恵みによって迎え入れられた罪人です。だから、「あなたは教会にふさわしくない」と、私たちが簡単に人を決めつけることはできません。教会は、完成した人間が集まる場所ではありません。罪人がキリストのもとに来て、キリストによって変えられていく場所です。だから、来るものを拒まないのです。
もちろん「何をしても許される」という事はありません。できる範囲で配慮する事は必要です。しかし、教会の清さや秩序を壊すことがあれば、愛をもって指摘する必要があります。そして悔い改めないのなら、教会に来る拒むこともあります。しかし、悔い改めるのなら何度でも迎え入れるのが教会です。つまり、人は拒まないが、御言葉は曲げない。これが教会の基本姿勢なのです。
③ 私たちの中にある境界線を、神様に壊していただきましょう
そして、最後に一番大切なことです。ペテロは悪い人だったから、異邦人を避けていたのでしょうか。そうではありません。ペテロは神様を愛していました。律法を大切にしていました。自分を清く保とうとしていました。しかし、その中にいつの間にか、「この人たちは私たちとは違う」という境界線ができていました。だから神様はペテロに、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない。」と言われたのです。
これは、私たちにも語られている御言葉ではないでしょうか。私たちの中にも、境界線があります。「あの人とは合わない。」「あの人さえいなければ、教会がもっと良くなる。」「なんであんな人がクリスチャンを名乗っているのだろう。」「子どもがいると礼拝が落ち着かない。」「韓国語と日本語があるから大変だ。」私たちは、人を自分の感覚で分類してしまいます。しかし、今日神様がペテロに教えられたのは、「あなたがその人をどう見ているか」ではなく、「私がその人をどう見ているかを考えなさい」ということです。ですから、人を見るとき、「私はこの人をどう思うか」ではなく、「神様は、この人をどう見ておられるのだろうか」と考えてみましょう。もちろん、罪を見過ごしてはいけません。教会の清さを守ることも大切です。しかし、罪を指摘することと、人そのものを拒絶することは違います。
私たちが人を裁くとき、神様が置いていない境界線を引くときがあります。ペテロは、その境界線を神様によって壊していただきました。教会の指導者であるペテロが、はみ出し者のシモンの家に泊まり、そこに敵であるローマ人を迎えるようになったのは神様の導きによるものです。私たちも祈りましょう。「主よ、私の中にも、人を分けてしまう心があります。私が勝手に作った境界線を壊してください。私の基準ではなく、神様の基準で人を見ることができるようにしてください」。これが、使徒10章から私たちが学ぶ大切な適用です。
4。まとめ
異邦人コルネリオの救いを通して、神様はユダヤ人と異邦人の間にあった人間の壁を壊されました。コルネリオに語り、ペテロの心を変え、異邦人にも聖霊を与えられました。私たちも神様の前に退いて祈り、そして人々のところへ遣わされる聖徒になりましょう。来るものを拒まず、人を迎える教会になりましょう。そして、神様に自分の基準を壊して頂き、神様の基準で人を見る者になりましょう。
私たちの前を神様に歩いていただき、私たちは神様の後からついて行く姿勢が大切です。「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」この御言葉を胸に刻み、日本人も外国人も、子どもも大人も、ともにキリストを礼拝する教会を、神様と一緒に建てていきましょう。

