20260830アホラとアホリバ(エゼキエル23:22-25)📺
20260830韓国語礼拝
聖書:エゼキエル23:22-25
題目:アホラとアホリバ
賛美:421、429
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「それゆえ、アホリバよ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしは、あなたの心がすでに離れたあなたの恋人らを起して、あなたを攻めさせ、彼らに四方から来てあなたを攻めさせる。 すなわちバビロンの人々およびカルデヤのすべての人々、ペコデ、ショア、コア、アッスリヤのすべての人々、好ましい若者、長官、司令官、官吏、軍人など、すべて馬に乗る者たちである。 彼らは戦車、貨車、および多くの民を率いて、北からあなたに攻めて来る。大盾、小盾、かぶとを備えて、四方からあなたに攻めかかる。わたしが彼らにさばきをゆだねるゆえ、彼らは、そのおきてに従って、あなたをさばく。 わたしはあなたに向かってわたしの憤りを起すゆえ、彼らは怒りをもってあなたを扱い、あなたの鼻と耳とを切り落し、そして残りの者はつるぎに倒れる。彼らはあなたのむすこ娘たちを奪い、生き残った者を火で焼く。」
エゼキエル書 23:22-25 口語訳
1。イントロ ― 同じ失敗を繰り返す人
皆さんは、誰かの失敗を見て、「私はあの人と同じ失敗はしないようにしよう」と思ったことがあるでしょう。子どものころ、兄や姉が叱られているのを見て、「私は絶対にあんなことをしない」と思ったことがあるかもしれません。ところが、人間は不思議なことに、他人の失敗を見ても、同じ失敗を繰り返すことがあります。聖書には、まさにそのような二人の女性が登場します。その名前は、アホラとアホリバです。この二人は実際の二人の女性ではありません。神様が、イスラエルとユダという二つの国を、二人の姉妹にたとえて語られたものです。つまり、アホラ=北イスラエル王国=サマリヤ、アホリバ=南ユダ王国=エルサレムです。
そして、この二人の物語には、イスラエルの歴史における悲しい失敗が描かれています。姉のアホラは神様を裏切りました。そして、その結果としてアッシリアによって滅ぼされました。ところが妹のアホリバは、姉の姿を見ていたにもかかわらず、同じ道を歩みました。いや、それ以上にひどい罪を犯しました。今日の本文は、そのアホリバに対する神様の裁きを語っています。
2。本文解説
① アホラとは誰か?
まず、姉のアホラについて見てみましょう。アホラはサマリヤを表します。「アホラ」という名前には、「彼女の天幕」という意味があります。これは非常に意味深い名前です。本来、イスラエルには神様が住まわれる幕屋がありました。ところが「彼女の天幕」という名前は、「私の礼拝は私のもの」というような、自分中心の礼拝を連想させます。神様が定められた礼拝ではなく、自分たちで礼拝の場所や形を作っていったのです。北イスラエル王国は、エルサレムの神殿に行くことを避けるため、ベテルとダンに金の子牛を置きました。つまり、「神様を礼拝する」と言いながら、神様が命じた方法ではなく、自分たちが都合のよい方法で礼拝したのです。
そして、そのようなアホラは、やがて外国の力を求めるようになりました。エゼキエル23章5節には、「アホラはわたしのものなのに淫行をし、恋人たち、すなわちアッシリヤ人を慕った」とあります。ここでいう「淫行」は、単なる男女関係の話ではありません。神様を捨てて、偶像と外国の力に頼ったことを、神様が「姦淫」と表現しているのです。アホラはアッシリアの軍事力、政治力、富、文化を慕いました。そしてアッシリアとの関係を結び、その力を頼りにしました。実際、イスラエルはアッシリアの支配の中に入り、アッシリアに貢ぎ物を納めるようになりました。
しかし、ここに大きな問題がありました。神様を信頼する代わりに、強い国を信頼したのです。そしてアッシリアとの関係は、最終的にイスラエルを救いませんでした。むしろ、アッシリアはイスラエルを攻撃し、北イスラエル王国は紀元前722年に滅びました。エゼキエル23章9–10節は、その皮肉を語っています。アホラが恋い慕ったアッシリア人が、最後にはアホラを裁く者になったのです。自分が助けを求めた相手が、最後には自分を滅ぼす者になった。これがアホラの悲劇でした。
② アホリバとは誰か?
では、妹のアホリバは誰でしょうか。アホリバはユダ、エルサレムです。アホリバという名前は、「わたしの天幕は彼女のうちにある」という意味を持っています。ここには、アホラとの大きな違いがあります。アホラは「彼女の天幕」。しかしアホリバは、「わたしの天幕は彼女のうちにある」です。つまり、エルサレムには神様の聖所がありました。神様の臨在がありました。神様の御言葉がありました。祭司がいました。神殿がありました。礼拝がありました。アホリバは、アホラよりもはるかに大きな恵みを受けていました。ところが、そのアホリバがどうなったでしょうか。姉のアホラがアッシリアを慕って滅びたことを見ていたのに、同じ道を歩みました。
エゼキエル23章11節には、「その妹アホリバは、これを見ても姉よりも淫行を重ねた」という趣旨が記されています。これは非常に恐ろしいことです。失敗したことが問題なのではありません。もちろん失敗は罪です。しかし、もっと恐ろしいのは、他人の失敗を見ても、自分は悔い改めないことです。アホリバは姉の結末を見ていました。アッシリアによってイスラエルが滅びたことを知っていました。それなのに、アッシリアを慕いました。さらにバビロンにも心を向けました。エジプトにも頼りました。つまり、神様だけを信頼するのではなく、強い国々との同盟を求めました。そして、外国との政治的な同盟は、単なる政治問題だけではありませんでした。外国の神々、文化、宗教、偶像も一緒に入ってきました。そのため、政治的な依存が、霊的な不忠実へとつながったのです。
③ エゼキエル23:22–25 ― 恋人が裁く者になる
そして今日の本文です。神様はアホリバに、「見よ、わたしは、あなたの心がすでに離れたあなたの恋人らを起して、あなたを攻めさせる」と言われます。ここには、非常に恐ろしい皮肉があります。アホリバが恋い慕った人々が、今度は彼女を攻撃するのです。恋人が敵になる。これが神様の裁きです。アホリバはバビロン、カルデヤ、アッシリアなどの強国を頼りました。しかし神様は、その強国を今度は裁きの道具として用いられます。
24節では、「彼らは戦車、貨車、および多くの民を率いて、北からあなたに攻めて来る」とあります。そして25節、「わたしはあなたに向かってわたしの憤りを起すゆえ、彼らは怒りをもってあなたを扱い、あなたの鼻と耳とを切り落し」とあります。これは非常に厳しい表現です。古代近東では、鼻や耳を切り落とすことは、不忠実な家臣・反逆者などに対する屈辱的な処罰の一つとして知られていました。つまり、「あなたが忠実でなかったので、あなたは恥を受ける」という意味を持っています。
ここで大切なのは、神様が単にイスラエルを苦しめたいから裁いているのではないということです。アホリバが信頼したものが、彼女を救うことができないことを明らかにするためです。彼女は、「アッシリアが強いから安心だ」「バビロンと関係を結べば大丈夫だ」「エジプトが助けてくれる」と思いました。しかし神様は、「あなたが頼ったものを、あなたへの裁きの道具とする」と言われるのです。ここに23章の恐ろしいメッセージがあります。
④ アホリバの最大の問題は何だったのか?
アホリバの最大の問題は、単に偶像を礼拝したことだけではありません。神様を知っていたのに、神様を信頼しなかったことです。エルサレムには神殿がありました。安息日には神殿で礼拝しました。祭司もいました。聖なる器もありました。しかし、神殿を出れば、外国の神々を求めました。つまり、礼拝と生活が分離していたのです。神様の前では、「主よ」と言いながら、生活の中では別のものを頼っていた。
これは、今日の私たちにも起こり得ることです。日曜日には神様を礼拝します。賛美します。祈ります。聖書を読みます。しかし月曜日から、「お金があれば安心だ」「この人に認められれば安心だ」「この仕事が成功すれば安心だ」と思ってしまう。そうすると、私たちも心の中で別のものを礼拝していることになります。だから、エゼキエル23章は、単に昔のイスラエルの話ではありません。私たちは何を信頼して生きているのか。これを問う御言葉です。
3。適用 ― イエスのカペナウムへの裁き
ここで新約聖書に目を向けましょう。エゼキエル23章を読むと、私はイエス様がカペナウムについて語られた言葉を思い出します。マタイ11章23節です。「カペナウム。おまえが天にまで上げられることがあるだろうか。ハデスにまで落とされるのだ」と。なぜカペナウムがこのように厳しく裁かれるのでしょうか。カペナウムが特別に悪い町だったからでしょうか。もちろん罪はありました。しかし、イエス様が問題にされたのは、大きな恵みを受けたのに悔い改めなかったことです。イエス様は、コラジン、ベツサイダ、カペナウムを名指しして語られました。なぜでしょうか。そこではイエス様が多くの力あるわざを行われたからです。つまり、彼らは見ていたのです。聞いていたのです。知っていたのです。それなのに、悔い改めなかった。ここにアホリバとの共通点があります。
① 知っているのに悔い改めないことは、知らないことより重い
アホリバには、姉アホラの失敗を見る機会がありました。アホラはアッシリアを信頼し、最後にはアッシリアによって滅ぼされました。それなのにアホリバは、「私は姉とは違う」とは言えないほど、同じ道を歩みました。むしろ、さらにひどくなりました。カペナウムも同じです。彼らにはイエスがいました。奇跡がありました。御言葉がありました。救い主が目の前におられました。それなのに悔い改めませんでした。だからイエス様は、マタイ11章24節で、「あなたがたに言うが、さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりまだ軽い」とまで言われました。なぜでしょうか。知らなかったからではありません。知っていたのに拒んだからです。
ですから私たちも、「私はあの人よりましです」と言ってはいけません。教会に長く通っているから大丈夫なのではありません。聖書をたくさん知っているから大丈夫なのでもありません。説教を何度聞いたかでもありません。大切なのは、知った御言葉に従っているか。聞いた御言葉によって悔い改めているか、です。兄弟姉妹、「あの人より私はましだ」ではなく、「私は神様の前にどう生きているか」を考えましょう。
② 神様よりも愛するものがあれば、それによって滅びる
アホラとアホリバが愛したものは、最初は魅力的に見えました。アッシリアは強かった。バビロンは豊かだった。エジプトも大きな力を持っていました。しかし、それらは神様の代わりにはなりませんでした。ここに偶像礼拝の本質があります。偶像とは、木や石で作った像だけではありません。神様よりも私たちが信頼し、愛し、頼るものです。お金。仕事。人間関係。名誉。地位。能力。安全。成功。これらが悪いのではありません。しかし、それらが神様より大切になった瞬間、それは私たちの心の中で偶像になります。
そして恐ろしいことに、私たちが神様より愛したものが、私たちを救ってくれるとは限りません。むしろ、それに人生を預けた結果、それによって傷つくことさえあります。アホリバがそうでした。彼女が愛した「恋人たち」が、最後には彼女を攻撃しました。ですから、私たちは自分自身に尋ねなければなりません。「私は何を一番愛しているだろうか。」「私は何を失ったら、生きていけないと思っているだろうか。」そこを見ると、私たちが何を礼拝しているのかが分かります。
③ 世の中に生きながら、キリストだけを愛する ― 世に染まらない花嫁として
では、私たちはどう生きればよいのでしょうか。この世には、私たちの心を奪うものがたくさんあります。お金、仕事、成功、人間関係、名誉、地位、楽しみ、安全、そして自分自身の欲望などです。だからといって、世の人々から完全に離れて生きることを、神様が望んでいるのでしょうか。そうではありません。私たちは神の民として、この世の光として生きていくことを神様は望んでいます。
イエス様も、罪人から離れて生活されたわけではありません。取税人と食事をされ、罪人たちと一緒におられました。しかし、イエス様ご自身は罪に染まりませんでした。人々を愛しながらも、罪を愛することはありませんでした。その秘訣は、父なる神との関係を決して失わなかったことです。マルコ1章35節には、「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。ここが大切です。私たちには、世の人々から離れる時間以上に、神様に近づく時間が必要なのです。
私たちは世の中で働き、人々と関わり、お金を使い、仕事や人間関係を大切にします。しかし、それらを神様より愛してはいけません。人々を愛する。しかし、罪を愛さない。世の中に出て行く。しかし、世の価値観に支配されない。これがクリスチャンの生き方です。だからこそ、毎日祈り、御言葉を読み、神様の前で自分の心を吟味し、悔い改める必要があります。「私は今、誰を一番愛しているのか。私の心はキリストに向いているのか、それとも世に向いているのか」と、自分自身に問いかけなければなりません。そうしなければ、「ミイラ取りがミイラになる」ということわざのように、人々を神様のところへ連れて行くために世に出て行ったのに、自分自身が世に引き込まれてしまいます。
私たちは、単に「世に染まらない人」になるだけではありません。エゼキエル23章のアホラとアホリバは、神様に対して不忠実な妻として描かれています。しかし、新約聖書では、教会はキリストの花嫁として描かれています。パウロは2コリント11章2節で、「あなたがたを、ひとりの夫にささげるために、きよい処女としてキリストに婚約させた」と語っています。キリストの花嫁として生きる者です。私たちは世の中に生きます。しかし、世の価値観に支配される者ではありません。人々を愛します。しかし、罪には妥協しません。そして何よりも、キリストだけを愛し、キリストに忠実な花嫁として生きていきましょう。
4。まとめ ― 「誰を愛して生きるのか」
人の失敗を見て、私達は何を考えますか?「私はあの人のようにはならない、大丈夫だ」と考えますか?それとも「私もあの人のようになっていたかも知れない、気をつけよう」と考えますか?大丈夫だと考え、悔い改めを拒むなら、私たちもアホリバと同じように失敗を繰り返すかもしれません。
神様よりも愛し、頼っているものはないか、今一度考えてみましょう。私たちが本当に頼るべき方は、この世の力ではなく、私たちを救ってくださる主イエス・キリストです。神様よりも先に探すものがあれば、それはアホリバと同じ道を辿っているかもしれません。
アホリバのようにではなくイエスのように、神様との時間を持つようにしてください。それが、世の中に生きながらも世に染まらず、キリストだけを愛する忠実な花嫁として生きていく方法です。神様との関係を第一する人生を全うしましょう。

