20260906仕える心(マルコ10:45)

20260906敬虔会

聖書:マルコ10:45

題目:仕える心

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

1。本文解説

 マルコ10章35~45節は、イエスが三度目の受難予告をされた直後の出来事です。マルコは、イエスが受難を語られるたびに、その一方で弟子たちがこの世的なことを考えている姿を描いています(8:31–38、9:30–37、10:32–45)。

 イエスは十字架と復活の奥義を語られました。しかし、弟子たちは神の国をこの世の王国のように考え、自分たちの地位や栄光を求めていました。その姿が、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願いに表れています。彼らはイエスが栄光を受ける時、自分たちを右と左に座らせてほしいと願いました。つまり、イエスに従うことで、自分たちも高い地位を得たいと考えていたのです。

 しかしイエスは、高い地位ではなく、逆に十字架の苦しみを分かち合う特権を約束されました。そして、神の国における「偉さ」は、この世の基準とは反対であることを教えられました。この世では、偉い人は人を支配し、人から仕えてもらいます。しかし、イエスは、「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、あなたがたに仕える者になりなさい。」と教えられました。

 そしてイエスご自身がその模範です。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人のために自分のいのちを与えるために来たのです。」イエスは十字架によって、ご自身の命を与えられました。つまり、キリストに従うとは、栄光を受けることだけを求めるのではなく、キリストのように人に仕える者になることです。

2。適用

 私たちも奉仕をしていると、辛く感じることがあります。自分が尊敬している人や好きな人のためなら、ある程度我慢できます。しかし、そうではない人に仕える時には、「なぜ自分がここまでしなければならないのか」「自分が軽く見られているのではないか」と思ってしまうことがあります。しかし、人に仕えることは、キリストに近づく一つの道です。

 人に仕えている時、私たちは自分の心の中にある高慢や自己中心性に気づかされます。そして、「人が自分をどう評価するか」ではなく、「神様はこの奉仕をどう見ておられるのか」を考えるようになります。弟子たちは「誰が一番偉いのか」を考えていました。しかしイエスは、「誰が一番仕えることができるのか」という方向へ弟子たちの目を向けられました。

 ですから私たちも、奉仕するときに人の反応や評価ばかりを気にするのではなく、「私は今、キリストのように仕えているだろうか」と自分自身に問いかけたいと思います。教会は、互いに支配する場所ではなく、互いに仕える場所です。私たちもイエス様のように、仕えられることよりも仕えることを喜び、共に仕える者として歩んでいきましょう。

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