20260902踏みにじられる聖所(ダニエル8:11-14)📺
20260902水曜礼拝
聖書:ダニエル8:11-14
題目:踏みにじられる聖所
賛美:412、428
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「またみずから高ぶって、その衆群の主に敵し、その常供の燔祭を取り除き、かつその聖所を倒した。 そしてその衆群は、罪によって、常供の燔祭と共に、これにわたされた。その角はまた真理を地に投げうち、ほしいままにふるまって、みずから栄えた。 それから、わたしはひとりの聖者の語っているのを聞いた。またひとりの聖者があって、その語っている聖者にむかって言った、「常供の燔祭と、荒すことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻にあらわれたことは、いつまでだろうか」と。 彼は言った、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」。」
ダニエル書 8:11-14 口語訳
1。 聖所まで踏みにじられる
前回、ダニエル7章には、恐ろしい獣たちが登場しました。その獣たちは非常に強く、神の民を苦しめます。しかし7章の最後には、人の子のような者が天の雲に乗って来られ、神様から永遠の国と主権と栄光を受けます。つまり、どれほど恐ろしい獣が暴れても、最後に勝利するのは人の子であるイエスキリストであるということです。
そして今回の8章では、どれほど恐ろしいことが起こるのかが記されています。私たちが礼拝し、神様の臨在が現れる聖所が破壊されるのです。私たちはどれだけ酷いことが起こったとしても、聖なる場所は守られるだろう、ここまでは大丈夫だろう、と自分で線を引いてしまう傾向にあります。しかし聖書は、聖所まで踏みにじられることを教えています。このような光景を見るとき、私たちはどうすればいいのか、今日の本文から考えてみたいと思います。
2。ダニエルが見た幻
① 雄羊 ― ペルシャ
ダニエルが見た幻の舞台は、エラム州の首都スサ、ウライ川のほとりです。そこに一匹の雄羊が立っていました。この雄羊はペルシャを表しています。雄羊には二つの角がありました。この二つの角はメディアとペルシャを表しています。そして、そのうち一つの角が後から長くなりました。これは、ペルシャがメディアを征服し、メディアとペルシャを統合して強大な帝国を作ったことを表しています。雄羊は西、北、南に向かって突撃しました。しかし東には向かいません。ペルシャ帝国がその方向へ勢力を拡大しなかったことを表しています。そして、「これに当たることのできる獣は一匹もなく」とあります。誰もこの雄羊に立ち向かうことができませんでした。これはペルシャ帝国の非常に強い力を表しています。人間の目から見ると、誰も止めることのできない巨大な帝国でした。
② 西から来た雄山羊 ― ギリシャ
しかし、その次に西から雄山羊がやって来ます。この雄山羊はギリシャを表しています。この雄山羊には目の間に大きな一本の角がありました。この角は力の象徴であり、アレクサンダー大王を指しています。雄山羊は、「地を踏まないように」見えるほどの速さで走ってきました。これはアレクサンダー大王が非常に速いスピードで領土を拡大していったことを表しています。そして雄山羊は雄羊に突進し、その二つの角を砕き、地に踏みつけました。ペルシャ帝国はギリシャによって倒されたのです。しかし、そこで終わりません。雄山羊の大きな角が折れました。アレクサンダー大王が若くして死んだからです。アレクサンダー大王は32歳ほどで亡くなりました。そして彼の帝国は四つに分割されました。プトレマイオス、セレウコス、リュシマコス、カッサンドロスです。一人の大王によって築かれた巨大な帝国も、永遠には続きませんでした。
③ 巨大化した小さい角 ― エピファネス
そして、そこから一つの小さい角が出てきます。7章の小さい角と8章のこの小さい角を同一人物として取るか、あるいは反キリストを象徴するものとして取るかについては、解釈が分かれています。しかし歴史的には、セレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスを指すと理解されます。最初は小さかった角が、次第に大きくなり、「天に及ぶまで」大きくなりました。そして、この角は「衆群の主」に敵対します。「衆群」は神の民を指しています。つまりエピファネスは神の民を攻撃し、さらに神様を礼拝させないようにしたのです。11節には、「その常供の燔祭を取り除き、かつその聖所を倒した。」とあります。これは単なる政治的な迫害ではありません。礼拝そのものに対する攻撃です。エルサレムの神殿は異教の神ゼウスを崇拝する神殿へと変えられました。律法を守ることも禁じられました。神の民が神様を礼拝することができないようにされたのです。ここで重要なのが、ペルシャによって建て直され、アレクサンダーの攻撃を免れた聖所が踏みにじられるということです。
④ 「いつまでですか」― 2300の夕と朝
13節で、聖所が踏みにじられ、神様の民が苦しめられるのは、いつまで続くのか、聖者が尋ねます。そして14節、「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」と答えられます。「2300の夕と朝」を2300日と考える解釈もありますが、毎日の夕と朝のいけにえを一組として理解すると、約1150日、つまり3年2か月ほどになります。この理解をすると、エピファネスによる迫害が本格化した紀元前167年頃から、神殿が奪回され、再び礼拝が回復された紀元前164年頃までの期間と大体一致します。紀元前164年、ユダ・マカバイによってエルサレム神殿が奪回され、神殿が再び神様への礼拝の場所として回復されました。つまり、解釈には議論があるとしても、この箇所が私たちに明確に教えていることがあります。迫害には終わりがある。聖所が永遠に踏みにじられるわけではないということです。神様はご自分の聖なるものをご自分の力によって最終的に回復されます。
エピファネスは紀元前175年頃、裏切りによってシリアの王位を手に入れました。紀元前168年にはエジプトへ侵攻しましたが、ローマの介入によって失敗しました。その腹いせのようにエルサレムへ戻り、城壁を壊し、家々に火を放ちました。そして多くのユダヤ人を殺害し、捕虜にし、奴隷として売り払いました。神の民は大きな苦しみを経験しました。しかし、そのエピファネスも永遠には続きませんでした。8章25節には、「しかし人手によらずに彼は破られるでしょう」とあります。その通りに、エピファネス自身も病気になって死にました。つまり、人間の力で大きくなったものは、どれほど強くても神様の上に立つことはできないということを教えています。
⑤ ガブリエルとダニエル
幻を見たダニエルに、ガブリエルが現れました。ガブリエルは、この幻が「終わりの時」に関係することを教えます。ダニエルは説明を受けましたが、すべてを理解することはできませんでした。そして、未来に恐ろしいことが起こることを知って、数日間寝込んでしまいました。それほど、この幻は恐ろしいものでした。しかし、その後ダニエルは起き上がり、王の事務を行いました。つまり、未来のことを知ったからといって、日常の使命を捨てたのではありません。恐ろしい未来を知っても、今日与えられた務めを果たしたのです。
3。適用
① 聖なるところが踏みにじられる時が来る
ダニエル8章は、私たちに一つの厳しい現実を教えています。聖なるものが踏みにじられる時が来る。ダニエル7章では、恐ろしい獣たちが現れ、神の民を苦しめました。しかし最後には、人の子のような者が来られ、永遠の国を受けます。ですから7章を読むと、「どれほど悪い者が暴れても、最後には神様が勝利される」という希望を持つことができます。ところが8章では、それだけではありません。悪の力がさらに進みます。神の民を攻撃するだけではなく、聖所を攻撃します。11節には、「その常供の燔祭を取り除き、かつその聖所を倒した。」とあります。礼拝そのものが攻撃されるのです。そして12節には、「その角はまた真理を地に投げうち」とあります。神の民を苦しめるだけではなく、真理そのものを地に投げ捨てるのです。
これは私たちにとっても重要な警告です。この預言を単なる紀元前2世紀の歴史だけとして終わらせてはいけません。終わりの時代には、単に「クリスチャンが嫌われる」というだけではなく、神様への礼拝そのものが攻撃される時が来るのです。イエス様もマタイ24章15節で、ダニエルの預言を引用して、「荒す憎むべきものが、預言者ダニエルによって言われたとおり、聖なる場所に立つ」と言われました。ですから、私たちは「最後にはイエス様が勝つから大丈夫」とだけ考えてはいけません。その勝利に至るまでに、信仰が試される時が来るのです。教会が攻撃されるかもしれません。聖書の真理が否定されるかもしれません。信仰を持つことが恥ずかしいことのように扱われるかもしれません。牧師がいなくなる時代が来るかもしれません。礼拝することそのものが難しくなる時が来るかもしれません。だからこそ、私たちは今から備えなければなりません。
13節で聖者は、「いつまでだろうか」と尋ねました。苦しみの中にいる人は、「いつまでですか」と神様に尋ねます。しかし神様は、その期間をご存じです。そして14節、「聖所は清められてその正しい状態に復する。」と答えられます。踏みにじられることが最後ではありません。神様は最後に聖所を回復されます。だから私たちは、今の状況だけを見て絶望してはいけません。
② どこにいても、どんな状況でも礼拝をやめない
では、聖所が踏みにじられる時、私たちはどうすればよいでしょうか。礼拝をやめてはいけません。ここで、イエス様とサマリヤの女との会話を思い出したいと思います。サマリヤの女は、どこで礼拝すべきなのかという問題をイエス様に尋ねました。サマリヤ人はこの山で礼拝すると言い、ユダヤ人はエルサレムで礼拝すると考えていました。しかしイエス様はヨハネ4章21節で、「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でも、エルサレムでもない時が来る。」と言われました。そして23節、「まことの礼拝者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。」と言われました。
これは非常に大切な御言葉です。私たちの礼拝は、建物そのものに限定されるものではありません。もちろん、教会に集まって共に礼拝することは大切です。しかし、もし聖所が踏みにじられる時が来たとしても、礼拝そのものを奪うことはできません。教会堂に集まれないなら、家で礼拝する。自由に集まれないなら、家族と祈る。聖書を開いて御言葉を読む。賛美する。主の御名を呼ぶ。神様を礼拝する。つまり、礼拝する場所を奪われても、礼拝する心まで奪われてはいけません。
そして、これは終末の迫害だけの話ではありません。私たちは今でも、礼拝をやめる誘惑を受けます。忙しいから。疲れているから。仕事があるから。人間関係が嫌だから。心がつらいから。しかし、今、小さな理由で礼拝を軽く考えているなら、信仰が試される時にどうするでしょうか。私たちはいつか、大きな迫害を受ける日が来ることを心の片隅に残しておく必要があります。
③ 今日の小さな忠実さから始めて、大きな迫害に耐える信仰を作っていきましょう。
大きな迫害に耐える信仰は、今日の小さな忠実さから始まります。今、自由に礼拝できる時に礼拝しましょう。自由に聖書を読める時に御言葉を読みましょう。自由に祈れる時に祈りましょう。自由に賛美できる時に、賛美しましょう。、今日知った聖書の内容が、今日祈ったことが、今日歌った賛美が、苦難の時に大きな力になります。
ペルシャは強大でした。しかし倒れました。ギリシャも強大でした。しかし倒れました。アレクサンダー大王も倒れました。エピファネスも倒れました。どれほど強い権力であっても、神様の上に立つことはできません。神様の勝利を信じてください。そして信じるなら、信じる者として最後まで生き抜いてください。その力は私達の中からではなく、主との関係の中から生まれます。
ダニエルは恐ろしい幻を見ました。ガブリエルから説明を受けて、未来に恐ろしいことが起こることを知りました。そのため、数日間寝込んでしまいました。しかし、その後どうしたでしょうか。王の事務を行いました。恐ろしい未来を知ったからといって、今日の使命を捨てませんでした。これが私たちに必要な姿です。私たちは未来をすべて知ることはできません。どんな迫害が来るのか分かりません。教会がどのような時代を通るのか分かりません。しかし、今日何をすべきかは分かります。今日、礼拝する。今日、祈る。今日、御言葉に従う。今日、家族に信仰を伝える。今日、教会に仕える。今日、主に忠実に生きる。これが私たちの使命です。
4。まとめ
ダニエル7章では、獣が暴れても最後には人の子が勝利することを見ました。しかし8章では、悪の力がさらに進み、聖所まで踏みにじることが示されます。それを見た私たちはどうしますか?
私たちが悪に勝利するのではありません。主が勝利されます。私たちの使命は、悪に勝利することではなく、勝利する主に最後まで忠実であることです。「いつまでですか」と思う時にも、諦めないでください。苦しみには終わりがあります。迫害にも終わりがあります。悪の力にも終わりがあります。しかし、神様の国には終わりがありません。だから、最後まで勝利する主を信じ、最後まで主を礼拝し、最後まで忠実に歩んでいきましょう。

