20260823破れ口を修復する者(エゼキエル22:30)

20260823韓国語礼拝

聖書:エゼキエル22:30

題目:破れ口を修復する者

賛美:301、310

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。」

‭‭エゼキエル書‬ ‭22‬:‭30‬ 口語訳‬

1。アナニヤという取り持つ人

 使徒の働き9章に、アナニヤという人物が登場します。彼は、教会を迫害していたサウロのところへ遣わされた人物です。アナニヤにとって、サウロのもとへ行くことは決して簡単なことではありませんでした。彼はサウロがどれほど恐ろしい人物であるかを知っていたからです。しかし主は、「さあ行きなさい。あの人は、異邦人、王たち、またイスラエルの子らの前にわたしの名を運ぶ、わたしの選びの器です」と言われました。アナニヤは自分の感情ではなく、神様の言葉に従い、敵のサウロの元に行きました。そして「兄弟サウロ」と呼び、手を置いて祈りました。アナニヤはサウロとキリストとの間に立ち、サウロをキリストのもとへ導く人になったのです。ここに、神が喜ばれる「取り持つ人」の姿を見ることができます。

 私たちの周りにも、関係が壊れている人、傷ついている人、神から離れている人がいます。しかし、彼らが自分勝手に生きているからといって、「それなら私も好き勝手に生きよう」と考えるのが、神様が望むキリスト者ではありません。むしろ、そのような時代だからこそ、神と人との間に立ち、人と人との間に立つ人が必要なのです。

2。神様の悲しみ

 エゼキエル22章を見ると、エルサレムの社会全体が深く腐敗していたことが分かります。指導者たちは権力を利用し、祭司たちは律法を汚し、預言者たちは偽りを語り、民もまた神から離れていました。弱い者は虐げられ、寄留者、みなしご、やもめも苦しめられていました。社会的な倫理が崩壊していたのです。

 しかし、その根本にあったのは、単なる政治や社会制度の問題ではありませんでした。人々が神を恐れなくなっていたことです。神との関係が壊れると、人は自分を中心にして生き始めます。「自分に何の利益があるのか」「自分がどうすれば得をするのか」ということが基準になります。そうなると、弱い人を守る理由も失われていきます。

 自然界を見れば、弱肉強食という現実があります。強いものが生き残り、弱いものは淘汰されていきます。しかし、人間社会では、弱い者をいたわり、病んでいる者を助け、貧しい者を守ろうとします。なぜでしょうか。それは、人間が単なる動物ではなく、神のかたちに造られた存在だからです。神を恐れることを失うなら、人間の価値をどこに置くのかという問題にも行き着いてしまいます。

 そして30節で、神様の悲しい言葉が出てきます。「わたしは、彼らの中から一人の人を探して、城壁を築き、わたしの前でこの国のために破れ口に立ち、わたしがこれを滅ぼさないようにしようとした。しかし、見いだせなかった」神様は「一人の人」を探しておられました。社会がこれほど堕落していても、その中で神の前に立ち、破れ口に立って、人々のためにとりなす人を探しておられたのです。しかし、「見いだせなかった」。これがこの箇所の悲しみです。

 聖書を見ると、アブラハムはソドムのために神の前に立ちました。モーセもイスラエルが罪を犯したとき、民のために神の前に立ちました。そして新約聖書では、アナニヤがサウロのために立ちました。彼らは人々の罪を見て、「自分には関係ない」と離れていったのではありません。神の前に立ち、人々のために祈り、神と人との間を取り持ったのです。

3。私たちは「破れ口を修復する者」である

 では、私たちはどう生きるべきでしょうか。周りの人々が神を恐れず、自分勝手に生きているからといって、私たちも自分勝手に生きてよいのでしょうか。周りの人が人を傷つけているから、自分も人を傷つけてよいのでしょうか。そうではありません。

 イエスは、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)と言われました。また、「あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われました。イエスは、争いの中にもう一人の争う人になることを教えられませんでした。むしろ、争いの中に入っていき、平和をつくる者になることを教えられました。

 兄弟が喧嘩をしている場面を考えてみましょう。兄が悪いことをして、父親が兄を叱っているとき、弟が「お父さん、兄ちゃんが悪いのは分かる。でも、もう許してあげて」と兄のために言ったとしたら、父親はどう思うでしょうか。弟が兄の悪い行いを正当化しているわけではありません。しかし、自分の兄弟を見捨てず、その間に立っていることを父親は喜ぶのではないでしょうか。

 神様も同じです。誰かが間違っているとき、その人を一緒になって責めるのではなく、「神様、この人を憐れんでください。この人を立ち直らせてください」と、その人のために神の前に立つ者を喜ばれるのではないでしょうか。

 私たちは、破れを見て見ぬふりをする者ではありません。家庭の中で関係が壊れているなら、その間に立つ者です。教会の中で人間関係が壊れているなら、その間に立つ者です。傷ついている人がいるなら、その人を裁くのではなく、その人のために祈る者です。神から離れている人がいるなら、その人を見捨てるのではなく、キリストのもとへ導く者です。

4。まとめ

 人々が好き勝手に生きる腐敗したこの世で、私たちが生きている理由があります。神様が私たちに望んでいることがあります。それは私たちが「破れ口を修復する者」になる事です。兄弟を見て裁くのではなく、兄弟と神様の間に立つことを神様は望んでいます。

 かつて私たちが神様に背を向けていたとき、キリストは私たちを見捨てませんでした。キリストは十字架において、神様と罪人である私たちとの間に立ってくださいました。私たちの罪を背負い、ご自身の命を捧げることによって、私たちを神と和解させてくださいました。

 だから、私たちは人々が好き勝手に生きるからといって、自分も好き勝手に生きるのではありません。キリストが私たちのために立ってくださったように、私たちも誰かのために立つために今を生きているのです。時代の流れに従って生きるのではなく、イエスのように、私たちもこの時代の破れ口に立つ者となりましょう。

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