20260823目から鱗が落ちる人生(使徒9:17-18)📺
20260823日本語礼拝
聖書:使徒9:17-18
題目:目から鱗が落ちる人生
賛美:92、320、370
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、」
使徒行伝 9:17-18 口語訳
1。自分の力だけで生きているのか?
先日、私たちの家庭に大きな出来事がありました。8月18日の夜、妻が破水して病院に行き、そのまま入院しました。私は一度家に帰りましたが、真夜中から陣痛が始まりました。19日の昼からは陣痛促進剤が始まり、私も病院に付き添いました。一晩中、妻は痛みに耐え、7分おきに陣痛が来るたびに、私は腰をマッサージしました。20日になると、陣痛促進剤によって3分おきに痛みが来るようになりました。しかし、痛みが強くなっているにもかかわらず、なかなか子宮口は開きません。赤ちゃんの向きも定まりませんでした。そして20日の午後2時、最終的に帝王切開に変更することになりました。
私たちは、できることは精一杯やりました。しかし、その中で強く感じたことがあります。それは、人間には、自分の力や努力だけではどうにもできないことがあるということです。どれだけ頑張っても、自分の思い通りにならないことがあります。命を与えることも、子どもを無事に生まれさせることも、私たちの努力だけで成し遂げられるものではありません。もちろん、努力することは大切です。与えられた責任を果たすために、私たちは一生懸命に働かなければなりません。しかし、努力しているからこそ、忘れてはいけないことがあります。それは、「私は、自分の力だけで生きているのではない」ということです。
私たちは、「自分が頑張ったから、ここまで来ることができた」と考えることがあります。しかし、少し立ち止まって考えてみると、命も、家族も、出会いも、私たちを支えてくれる人々も、そして今日こうして神様を礼拝できることも、自分の力だけで手に入れたものではありません。私たちは、自分の力で生きているのではなく、神の恵みによって生かされているのです。ところが、その恵みを忘れると、「自分が頑張った」「自分が正しい」という思いが強くなります。今日の聖書に登場するサウロも、まさに自分の正しさを信じ、自分の力で生きていた人でした。しかし、ダマスコへの道でイエス・キリストに出会ったとき、彼の人生は根本から変えられました。今日は、サウロの人生を通して、「目から鱗が落ちる」とはどういうことなのかをご一緒に考えてみたいと思います。
2。「自分の正しさ」が崩される時
① 努力と熱心さに満ちたサウロ
今日登場するサウロは、後の使徒パウロです。サウロはキリキヤ州のタルソ出身でした。タルソは当時、ギリシャ文化や学問が盛んな都市でした。またサウロはローマ市民権を持ち、ユダヤ人として律法について厳しく教育を受け、エルサレムで有名な律法学者ガマリエルのもとで学びました。彼はベニヤミン族の出身で、生まれて八日目に割礼を受け、律法を守ることに非常に熱心な家庭で育ちました。
つまりサウロは、決して怠けた人ではありません。むしろ非常に努力した人でした。聖書を学び、律法を守り、神に仕えることに誰よりも熱心でした。後にパウロ自身も、自分が律法については「非難されるところのない者」だったと語っています。
しかし、ここにサウロの問題がありました。熱心であれば、必ず正しいとは限らないのです。サウロは自分が神に仕えていると確信していました。しかし、その熱心さは、イエスを信じる人々を迫害する方向へ向かってしまいました。
彼は、「イエスを信じる者たちは間違っている」と考えました。そして、彼らを捕らえ、教会を迫害しました。自分は神のために正しいことをしていると思っていたのです。しかし実際には、神が遣わされたキリストを迫害していました。「自分は正しい」と思っていることと、「神の御心に従っている」ことは、必ずしも同じではありません。
② 人生がひっくり返るサウロ
サウロは、さらにクリスチャンを迫害するため、大祭司から権限を受けてダマスコへ向かいました。エルサレムからダマスコまでは約240キロ。決して短い旅ではありません。しかし、サウロには明確な目的がありました。クリスチャンを捕らえることです。彼は自分の使命を信じ、自分の正しさを信じて前へ進んでいました。
ところが、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼を照らしました。そしてサウロは地に倒れました。そのとき、声が聞こえました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」サウロは尋ねます。「主よ。あなたはどなたですか。」すると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と答えられました。この瞬間、サウロの人生はひっくり返りました。それまでサウロは、「イエスは間違っている」と思っていました。「イエスを信じる者たちは神に逆らっている」と考えていました。しかし、そのイエスご自身がサウロの前に現れたのです。
そこでサウロは、自分が正しいと思っていたことが間違っていたことを知らされました。自分は神のために戦っていると思っていた。しかし実際には、神が遣わされたキリストを迫害していた。ここで、サウロがこれまで築いてきた「自分の正しさ」が崩されたのです。
③ 三日間何もできないサウロ
サウロは目が見えなくなり、同行していた人々に手を引かれてダマスコへ入りました。そして三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしませんでした。これまでのサウロは、自分の力で前へ進んできました。しかし今は、目が見えません。自分で歩くこともできません。ダマスコに来た本来の目的を果たすこともできません。そして主はアナニヤに、「サウロは祈っている」と言われました。これは大きな変化です。これまでサウロは、自分の正しさを信じて行動していました。しかし今、何もできなくなったサウロは、神の前に祈っていました。自分の力で進んでいた人が、神を見上げる人へと変えられ始めたのです。
④ アナニヤを通して届いた神の恵み
そのころ、ダマスコにはアナニヤという弟子がいました。主はアナニヤに、サウロのところへ行くよう命じられます。しかし、アナニヤは恐れました。サウロがどれほどクリスチャンを迫害してきたのか知っていたからです。「本当に、このサウロのところへ行くのですか。」アナニヤがそう思ったとしても不思議ではありません。しかし主は言われました。「行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らの前に、わたしの名を運ぶ、わたしの選びの器です。」アナニヤは主の言葉に従い、サウロのもとへ行きました。そしてサウロの上に手を置いて、驚くべき言葉をかけます。「兄弟サウロよ。」昨日まで教会を迫害していた人を、「兄弟」と呼んだのです。そしてアナニヤが手を置くと、サウロの目から、鱗のようなものが落ちました。そして、再び見えるようになりました。さらにサウロはバプテスマを受けました。ここでサウロに起こったことは、単なる視力の回復ではありません。サウロの人生そのものが変えられたのです。それまで彼は、自分の正しさを信じていました。しかし今、キリストを主として生きる人生が始まったのです。
3。努力の人生から、恵みの人生へ
① 頑張ることが、すべてではない
ここで私たち自身の人生を考えてみましょう。サウロは非常に努力した人でした。しかし、問題は努力したことではありません。「自分の努力によって、自分を正しい者にしようとしたこと」が問題でした。私たちも頑張ります。仕事を頑張ります。家庭を頑張ります。教会のために頑張ります。信仰生活も頑張ります。努力することは大切です。しかし、「私はこれだけ頑張っている」という思いが強くなってくると、少しずつ危険になります。「私はこれだけやっているのに、あの人は何もしていない。」「私はこんなに頑張っているのに、なぜあの人は分かってくれないのか。」「私はこれだけ我慢しているのに。」こうなると、努力がいつの間にか自分の義になってしまいます。そして、人と比べるようになります。人を裁くようになります。不満が増えていきます。ですから、私たちは努力することと同時に、いつも思い出さなければなりません。「私は、自分の努力によってここまで来たのではない。神の恵みによって、ここまで来たのだ。」
② 恵みを忘れると、感謝を失う
私たちが不満になる一つの理由は、恵みを忘れているからです。神様から受けた恵みを忘れる。人から受けた助けを忘れる。祈ってもらったことを忘れる。支えてもらったことを忘れる。そうすると、「これは自分の権利だ」「これくらいしてもらって当然だ」という思いが強くなります。そして、人に対する要求が強くなります。不満が増え、批判が増えていきます。反対に、自分が恵みによって生かされていることを知る人には、感謝が生まれます。「自分も赦していただいた。」「自分も助けていただいた。」「自分も多くの人に支えていただいた。」「今日まで生かされてきたのは、神の恵みだ。」そう分かると、人に対して寛容になれます。自分が受けた恵みを、人にも分け与えられるようになります。ですから、感謝できる人とは、問題がない人ではありません。恵みを見失わない人です。
③ 「自分中心」から「キリスト中心」へ
そして、サウロに起こった最大の変化は、人生の中心が変わったことでした。以前のサウロの中心には、「自分」がありました。自分の正しさ。自分の熱心さ。自分の努力。自分の義。しかし、キリストに出会った後は違いました。「イエス・キリストが主である」これが彼の人生の中心になりました。だからパウロは後にこう言います。「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。」― Ⅰコリント15:10パウロは、「私は頑張ったから今の私になった」と言いませんでした。「神の恵みによって、今の私になった」と言いました。もちろん、パウロはその後、誰よりも熱心に働きました。しかし、努力の意味が変わったのです。以前は、自分の正しさを証明するために努力していました。しかし今は、すでに受けた神の恵みに感謝して、神に仕えるために努力したのです。
これは私たちにも大切なことです。「もっと頑張らなければ、神に愛してもらえない。」そうではありません。神に愛されているから、頑張るのです。「もっと良い人間にならなければ、価値がない。」そうではありません。キリストによって赦され、受け入れられたから、変えられていくのです。ですから、キリスト教は単なる自己改善ではありません。「もっと強くなれ。」「もっと頑張れ。」「もっと自分を変えろ。」というだけの教えではありません。福音は、「あなたは神の恵みによって生かされている」という知らせです。そして、その恵みを知った人が、感謝をもって生きるようになるのです。
④ 「恵みによって生きる人」は、分け合う人になれる
もう一つ大切なのは、恵みを知る人は、人に対しても変えられていくということです。自分が赦されたことを知る人は、人を赦すことができます。自分が助けられたことを知る人は、人を助けることができます。自分が弱さを持っていることを知る人は、人の弱さにも寛容になります。逆に、自分の努力ばかりを見ていると、人にも自分と同じことを要求してしまいます。「私はできたのだから、あなたもできるでしょう。」「私はこれだけ我慢したのだから、あなたも我慢すべきでしょう。」しかし、恵みを知る人は違います。「私も神様に支えていただかなければ、ここまで来ることができなかった。」だから、人にも優しくなれるのです。教会とは、頑張れる人だけが集まる場所ではありません。恵みによって生かされている人たちが集まる場所です。だから私たちは、お互いに恵みを分け合う教会でありたいのです。
4。まとめ―目から鱗の人生
サウロの目から鱗のようなものが落ちたとき、彼はただ目が見えるようになっただけではありません。自分が正しいと思う人生から、キリストを主とする人生へ。自分の力を誇る人生から、神の恵みに感謝する人生へ。人を裁く人生から、恵みを分け与える人生へ。それが、サウロの「目から鱗」の人生でした。私たちも今日、もう一度、自分の人生を見直しましょう。「私は、神の恵みによって、今の私になった。」このことが見えるようになることこそ、私たちにとっての「目から鱗」なのです。


