20260415エリパズに対する答え(ヨブ23:10-11)📺
20260415水曜礼拝
聖書:ヨブ23:10-11
題目:エリパズに対する答え
賛美:336、341
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。 彼がわたしを試みられるとき、 わたしは金のように出て来るであろう。 わたしの足は彼の歩みに堅く従った。 わたしは彼の道を守って離れなかった。」
ヨブ記 23:10-11 口語訳
1。人間の正義の限界
①デスノート
2003年から2006年まで週刊少年ジャンプで連載されていた漫画です。たった全12巻ですが、単行本の発行部数は3000万部以上という異例の大ヒットを上げました。主人公の夜神月は、名前を書くと、書かれた人が亡くなるというノートを拾いました。そして、社会をより良くするために、悪人の名前を次々とノートに書いていきました。そこには、「罪には罰」「自分が正義」という考えがありました。
最初は、悪人を裁くためや人助けをするためにノートを使っていましたが、物語が進むにつれて、自分に反対する人や無関係な人も殺害するようになりました。自己正当化が強化され、自分は神であり、人を殺して良いという考えが見えるようにます。どんどん人間性が崩壊していきました。そして最後には、正体が暴かれ、命乞いをするようになりました。神のように生きた人間が、最後には、生きるために必死な普通の人間に戻ったのでした。
②人は裁く立場にない
この物語が私たちに問いかけているのは、「正義とは何か」という問題です。夜神月は、自分こそが正しいと信じ、悪を裁く側に立ちました。しかしその正義は、やがて自分中心に歪み、人を裁き、排除し、最後には自分自身をも崩壊させていきました。
ここに、人間の正義の限界があります。人は「正しいこと」を語ることはできても、神のように完全に裁くことはできない存在なのです。なぜなら、私たちはすべてを知ることも、すべてを正しく見ることもできないからです。それにもかかわらず、人はしばしば、自分の理解や経験を基準にして他人を判断し、「あの人は間違っている」「この苦しみには理由があるはずだ」と結論づけてしまいます。
まさにそのような姿が、ヨブ記に登場するエリパズの中に見られます。彼もまた、苦しみの原因は罪」「罪には罰」といった自分なりの正しさを持っていました。そしてその正しさに基づいて、苦しんでいるヨブに対して、最終的な裁きのような判断を下してしまったのです。一方で、ヨブはまったく異なる視点を明らかにしました。私たち信仰者が持つべき視点は「罪には罰」が全てという視点ではないということを教えています。それが何かを一緒に見ていきましょう。
2。本文解説
①エリパズの主張
22章でエリパズは、自分の信じる「罪には罰」という摂理に基づいて、激しくヨブを攻撃しています。そこには友人としての慰めは見られません。1週目は穏やかだったエリパズですが、2周目では自分の理論を守るため、白熱していました。そして3週目では、よぶが冷静さを取り戻しているのとは対照的に、エリパズは冷静さを失っています。今回のエリパズの発言を見ると、事実ではなく状況からの決めつけが見られます。そして間違った前提から、ヨブの人格を否定し、悔い改めを強く迫っています。
このような態度は、現代にも見られます。事故や病気に苦しむ人に対して、「神様のご計画がある」と語ること自体は聖書的です。しかしそこからさらに、「信仰に問題があるのではないか」「祈りが足りないのではないか」と決めつけ、悔い改めを求めることには注意が必要です。外から見て、「祝福されている状態=信仰が正しい」「苦しんでいる状態=信仰が弱い」と単純に結びつけることは、聖書全体の教えとは言えません。このような考え方は、人を追い詰め、誤った方向へ導く危険性があります。
確かに「罪には罰」という摂理自体は間違いではありません。これはこの世の基本的な感覚でもあり、『デスノート』のような作品にもその発想が表れています。しかし、それだけでは不十分です。確かに聖書も罪とその結果について語ります。しかし忘れてはいけない重要な事実があります。聖書は、「罪には罰」だけでなく、「イエス・キリストによる赦し」を同時に教えています。私たちに求められているのは、苦しんでいる人に正論をぶつけることでも、神の座に座って断定することでもありません。愛をもって寄り添い、回復へと導くことなのです。「祈りが足りない」と決めつけるのではなく、「共に祈るべき時が来ている」と受け止めることの方が、より福音的です。
②ヨブの応答
エリパズの激しい言葉に対して、ヨブはこう告白します。「神は私の道を知っておられる」。ここでの「知る」とは、単なる表面的な情報ではなく、すべてを見て理解しておられるという意味です。人はヨブを誤解し、エリパズは「お前は罪人だ」と断定しました。しかしヨブは、「人は分からなくても、神は知っておられる」と語ります。これは、人の評価ではなく、神のまなざしに立つ信仰の表れです。
さらにヨブは、「試されれば金のように出てくる」と言います。彼は自分の苦しみを、罰ではなく試練、すなわち精錬として理解していました。火によって不純物が金から取り除かれるように、神は人を滅ぼすためではなく、純くするために試されるのです。ここに大きな違いがあります。エリパズは「苦しみ=罰」と断定しましたが、ヨブは「苦しみ=精錬」と受け止めました。苦しみの意味の理解が、まったく異なっていたのです。
またヨブは、「私はその道に従った」と告白します。これは単なる自己正当化ではなく、神との関係における誠実な歩みの表明です。重要なのは結果ではなく方向です。成功しているかどうかではなく、神に向かって歩んでいるかどうかが問われているのです。確かに、ヨブにも全く問題がないわけではありません。ヨブの言葉には、「自分は正しい」という思いが強く表れており、そこに高慢さが見え隠れしています。内容自体は間違っていなくても、その姿勢が、苦しみに対して完全にへりくだることを妨げていた面もあります。
それでもヨブは、「罪には罰」という単純な考えにはとどまりませんでした。「自分の苦しみは理解できない。しかし神は知っておられる」という告白に見られるように、彼の信仰は結果ではなく、神との関係に根ざしたものでした。この神への焦点こそが、混乱の中でもヨブを支えていたものであり、私たちクリスチャンが持つべき信仰なのです。
3。適用
①「自分の正しさ」を手放し、神さまに委ねましょう。
私たちはエリパズのように、「正しいこと」を語りながら、人を裁いてしまう危険を持っています。しかしその根底には、「自分は正しい」という自己正当化の思いがあります。聖書は、「誇る者は主を誇れ」と教えています(2コリント10:17)。人は自分の正しさを握ろうとするとき、知らず知らずのうちに神の立場に立とうとしてしまいます。
実は、ヨブもエリパズも、この「自己正当化」という点では同じ危険を持っていました。しかし決定的な違いがありました。エリパズは自分の正しさに焦点を当て続けた結果、感情が高まり、論理が崩れ、根拠のない罪までヨブに押し付けるようになりました。一方でヨブは、苦しみの中にあっても、最終的に焦点を自分ではなく神に向けていきました。「神は私の道を知っておられる」と告白したとき、彼は自己弁護ではなく、神への信頼に立ったのです。自己正当化の罠から解放されつつありました。
「自分の正しさ」を手放しましょう。私たちは、人を裁くのではなく、自分の正しさに固執するのでもなく、すべてを神に委ねる者であるべきです。ローマ人への手紙14章10節が語るように、「なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか」と問われるとき、私たちは裁く者ではなく、神に委ねる者へと立ち返る必要があります。
②苦しみの中でも、神のまなざしを信じましょう。
ヨブの信仰の中心は、「神は私の道を知っておられる」という確信でした。人には理解されなくても、神はすべてを見ておられる。この神のまなざしに立つとき、人は揺るがない信仰へと導かれます。
ペテロの手紙第一5章7節には、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」とあります。さらに主イエスも、「明日のことまで思い悩むな」と語り、天の父にすべてを委ねる生き方を示されました。そして十字架の上でさえ、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈られました。苦しみのただ中にあっても神に委ねること、これが主ご自身の歩まれた道です。
私たちもまた、苦しみの理由が分からなくても、神に委ねることができます。それは状況の理解によってではなく、神との関係に基づく信仰です。「神は知っておられる」という確信が、私たちを支えるのです。
そしてこの信仰は、他者への関わり方を変えていきます。エリパズのように正しさで人を裁くのではなく、神のまなざしに立つ者として、愛をもって寄り添う者へと変えられていきます。ガラテヤ人への手紙6章2節が語るように、「互いの重荷を負い合いなさい」とある通りです。
つまり、苦しみの中で神のまなざしを信じるヨブのような人こそが、同じ苦しみの中にいる人に寄り添うことができるのです。自分自身が神に委ね、支えられていることを知っているからです。神に委ねる信仰は、人を裁く者ではなく、人を担う者へと私たちを変えていきます。
4。まとめ
私たちは「罪には罰」だけの世界で生きているのでありません。
人々は、苦しみにの中にいる人々を裁こうとして近寄ってきます。
その中でヨブは、苦しみの中でも「神は知っておられる」と神様に焦点を合わせました。
だから私たちも、ヨブのように神に視線を合わせて、神様に委ねる信仰を持って歩んでいきましょう。

