20260401人々の嘲笑(マルコ14:65)📺

20260401水曜礼拝

聖書:マルコ14:65

題目:人々の嘲笑

賛美:154、151

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

「そして、ある者はイエスにつばきをかけ、目隠しをし、こぶしでたたいて、「言いあててみよ」と言いはじめた。また下役どもはイエスを引きとって、手のひらでたたいた。」

‭‭マルコによる福音書‬ ‭14‬:‭65‬ 口語訳‬

1.社会的な死とは何か

 当時のグレコ・ローマンの世界は、「名誉と恥」を非常に重視する社会でした。そのため、人を裁くときも単に肉体的に殺すだけではなく、社会的に抹殺することが重要視されていました。それは復讐のためではなく、秩序を維持するためです。日本では人を排除することで間接的に恥を与える傾向がありますが、古代では違いました。人前にさらし、見せしめにすることで直接的に恥を与えたのです。

 その代表的な例が、マケドニア最後の王ペルセウスです。彼は第三次マケドニア戦争でローマに敗北し、国は滅びました。しかしローマは彼をすぐに殺さず、連行しました。

そして「凱旋式」と呼ばれる勝利のパレードの中で、群衆の前に引き出したのです。かつて王であった者が見せ物となり、尊厳を失っていく。それは単なる敗北ではなく、存在そのものを否定する行為でした。これは、マケドニアが二度と立ち上がれないようにするための、徹底した社会的な死でした。

 では現代はどうでしょうか。今の時代、人は剣や暴力を使わなくても人を傷つけることができます。言葉や視線によって、人を倒すことができるのです。特にSNSでは、人を「見せ物」にし、社会的な死へと追いやることが容易になりました。殴られているわけではありません。しかし、評判を失い、信頼を失い、居場所を失います。こうして人は、静かに社会から消されていきます。古代のグレコ・ローマンの世界ではは処刑の前に辱めました。しかし現代は、辱めること自体が人を終わらせる手段となっています。しかもそれは、より広範囲に、より感情的に行われるようになっています。

 イエスが受けられた十字架刑は、単なる死刑ではありません。社会的に抹殺するための見せしめでした。裸にされ、人前にさらされ、長時間苦しめられ、嘲笑される。しかし重要なのは、イエスは十字架にかかる前から、すでに人々の嘲笑による社会的な死を受けておられたということです。

2.本文解説

この一節には、イエスが受けられた苦しみが凝縮されています。

①「つばきをかけ」― 人格の否定

 唾をかけるという行為は、当時のユダヤ社会において最大級の侮辱でした(民数記12:14参照)。それは「お前には価値がない」という宣言です。イエスは人格そのものを否定されました。

②「目隠しをし」― 不当な扱い

 通常の裁判では目隠しは行われません。これは明らかに正当な手続きではなく、悪意による行為です。確かにローマでは尋問する時に目隠しをする場合がありますが、イエスは何も隠してはいません。イエスは不当な扱いを受けられました。

③「こぶしでたたいて」― 暴力

 モーセの律法でもローマ法でも、不当な暴力は禁止されています。さらに目隠しをした状態での暴力は、防御反応が働かないため、衝撃がとても大きなものになります。イエスは一方的な暴力を受けられました。

④「言い当ててみよ」― 存在の否定

 これは単なる嘲りではありません。イエスの「神の子」「預言者」というアイデンティティそのものを否定する言葉です。単なる悪ふざけの言葉ではありません。イエスは存在そのものを否定されました。

⑤「下役どもは手のひらでたたいた」― 集団での暴力

 下役とは、祭司長に仕える警備の者たちです。権力者だけでなく、一般の人々までもがイエスを軽んじました。つまり、誰の助けもない完全な孤立状態です。イエスは集団的な暴力と嘲笑の中に置かれました。

⑥イエスの受けられた精神的苦痛

 ここにあるのは、人格の否定、不当な扱い、暴力、存在の否定、集団での暴力です。そして何より、敵ではなく、愛すべき民から受けた苦しみでした。守ろうとしている民から嘲笑を受けているのです。イエスは、私たちが経験するあらゆる痛みを、すでに経験されたのです。

3.適用

イエスは「嘲笑の苦しみ」を知っている。

 この苦しみは特別なものではありません。私たちも日常の中で経験します。理解されない、馬鹿にされる、無視されるといった事です。実際2022年の日本では、いじめが約68万件、パワハラが約8.8万件、児童虐待が約22万件、DVが約12万件あったと報告されており、多くの人が何らかの形で「嘲笑の苦しみ」を受けています。

 しかし、ここに希望があります。イエスはそれを「知っておられる」お方です。頭で理解しているのではなく、唾をかけられ、笑われ、否定され、孤独にされるという形で、実際に経験されたお方です。私たちの痛みを知っておられるのです。

イエスは「嘲笑の苦しみ」の乗り越え方も知っている。

 イエスは、言い返さず、抵抗せず、静かに受け入れました。それは弱さのせいではありません。敗北を認めたわけではありません。私たちを救うために忍耐を選択したのです。ただ耐えることがいつも正解というわけではありません。この時は、耐えることがイエスが取るべき選択だったのです。

 ではイエスはどうやってその選択ができたのでしょうか。それは祈りによってです。イエスはゲッセマネの園で、自分の感情と思いを全て神様に吐き出し祈りました。そして何度も祈ることで、自分の思いを神の御心に合わせていったのです。その結果、嘲笑を乗り越え、十字架の道を歩むことができるようになりました。裏切り者のユダが兵士達を連れてイエスを捕まえに来た時、イエスは慌てることなく冷静でした。天使を呼んで守ってもらう事も十分に可能でしたが、そうしませんでした。自ら捕まりに行ったのです。それは自分のなすべきことがわかっていたからではないでしょうか?

私たちはどう応答するか

 では私たちはどうするべきでしょうか。人々の嘲笑によって苦しい時、同じように我慢すべきでしょうか。あるいは仕返しするべきでしょうか。または逃げるべきでしょうか。大切なのは、神の国の民であるというアイデンティティをしっかりと持つことです。時にはその場から離れても良いし、沈黙する必要もありません。戦うべき時があり、逃げるべき時があります。イエスもそのようにしました。人の前での自分がどう生き延びるかではなく、神の前で自分がどう生きていくかが大切です。なぜなら、私たちのアイデンティティは人ではなく神にあるからです。どう行動すべきかは、神様に尋ねて下さい。イエスに示したように、神様は必ず私たちにも示して下さいます。

 そして覚えてください。人々の嘲笑の中にあるとき、イエスは最も近くにおられます。それは、私たちがイエスと同じ道を歩んでいるからです。人間的な弱さのために、私たちは間違った選択をし、間違った行動をしてしまう事もあります。しかし、イエス様は私たちの弱さをご存知です。心配しないで下さい。私達が主により頼めば、私たちの間違った行動すらも意味あるものにすることができます。社会的な死を受けても、肉体的な死を受けても、復活したイエスのように、私たちも必ず乗り越えることができます。

4.まとめ

  人は昔も今も、嘲笑によって人を傷つけ、社会的な死を与えます。社会的な死は、私たちのアイデンティを崩壊させる恐ろしいものです。しかし私たちには、私たちを愛し守られる神様がおられます。イエスが乗り越えたように、私たちも乗り越えることができます。嘲笑の中でこそ祈る者となりましょう。神様により頼むことで、苦しみの先にある神の栄光にあずかることができる事を信じて下さい。

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