20251010アグリッパ兄妹(使徒25:13-22)
20251010早天祈祷会
聖書:使徒25:13-22
題目:アグリッパ兄妹
賛美:267、268
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
1.本文解説
(1)アグリッパ王とベルニケの訪問
数日後、アグリッパ王とベルニケが、新任総督フェストに挨拶するためカイサリヤを訪れ、しばらく滞在しました。
アグリッパ王(ヘロデ・アグリッパ2世)は、ヘロデ家の出身です。父は使徒ヤコブを殺したアグリッパ1世、父の叔父はバプテスマのヨハネを処刑したヘロデ・アンティパス、祖父はヘロデ大王です。父が亡くなった時は17歳で、この時は30歳前後、ガリラヤの領主でした。ローマで教育を受け、皇帝クラウディウスからも好意を持たれていました。また神殿の管理者として大祭司の任命権を持っていましたが、ローマの支配下にある存在でもありました。それでもユダヤ人の中では、ヘロデ家の中で比較的評価の良い人物でした。
ベルニケはアグリッパの妹で、さらに妹のドルシラは総督ペリクスの妻でした。ベルニケは最初叔父と結婚しましたが死別し、その後は兄アグリッパと同棲し、最終的にはエルサレムを滅ぼした将軍ティトスのもとに行きました。
ドルシラについても振り返ると、彼女はもともとシリアの王と結婚していましたが、16歳の時にペリクスの誘惑によって離婚し再婚しました。そしてパウロから福音を聞きながらも、悔い改めることはありませんでした。
この訪問の目的は、新任総督フェストへの挨拶であり、彼らはカイサリヤにしばらく滞在しました。
(2)フェストの相談
フェストはパウロの扱いについて問題を抱えていました。カイサルへ送るにしても、正当な理由が見当たらなかったからです。
ユダヤ人たちの告発内容はすべて宗教的な問題であり、ローマ法に基づく犯罪とは言えませんでした。そこでフェストは、ローマ法にもユダヤ教にも詳しいアグリッパに相談することにしました。
フェストは状況を説明します。前任のペリクスが残した囚人パウロがいること、ユダヤ人たちが正式な手続きを経ずに有罪判決を求めてきたこと、自分はローマ法に従って裁判を行ったこと、しかし有罪の証拠は何一つ出てこなかったことを語りました。
それでも彼らの争いは続いていました。その争点は、死者の復活、特に「死んだはずのイエスが生きている」とパウロが主張している点にありました。
フェストは、自分がユダヤ人に配慮していることは表に出さず、むしろ自分の判断の難しさを率直に認め、助言を求めたのです。
(3)アグリッパの反応
これを聞いたアグリッパは、「私もその人の話を聞いてみたい」と言いました。彼はキリスト教について、パウロから直接聞きたいと考えたのです。
実は、ヘロデ家には同じような傾向がありました。アグリッパの叔父アンティパスもイエスの話を聞きたがり、妹ドルシラもパウロの話を聞こうとしました。ベルニケもこれに同意しました。
しかし、結果的に信仰に至ったのは、マナエンやヨアンナのようにヘロデ家に仕えながら神を信じた人々でした。
また、ヘロデ家とローマの関係にも特徴があります。ヘロデ大王はアントニウスによって王に任命されましたが、後にアントニウスを裏切りオクタヴィアヌスに忠誠を誓いました。その結果、「ローマの友」としての地位を保ち続けたのです。
2.適用:人の評価ではなく神の愛に生きる
「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも神に喜ばれようとしているのか。」(ガラテヤ1:10)
私たちは、人の評価ではなく神の愛を基準にして生きるべきです。
人の評価は一面的です。パウロはクリスチャンにとっては善人ですが、ユダヤ人にとっては悪人でした。アグリッパは比較的良い評価を受けていましたが、神の前では罪ある人です。ベルニケやドルシラも成功者に見えますが、不貞の罪を抱えていました。フェストも優れた総督に見えますが、完全ではありません。ヘロデ大王もローマには評価されましたが、ユダヤ人には悪人でした。
イエスでさえ、その評価は人々の間で分かれていました。
また、現代においても、人の評価に苦しむ現実があります。2023年7月21日にソウルで起きた通り魔事件では、犯人は「他人も不幸にしたかった」と語り、自身の劣等感を動機の一つとしていました。誰かにとっては些細なことでも、本人にとっては大きな問題となるのです。
では、どうすれば劣等感から解放されて生きることができるのでしょうか。
それは、パウロやイエスのように、神の愛だけを見て生きることです。神は私たちを容姿や能力で評価されません。ありのままの私たちを愛し、福音を与えてくださいました。
神が私たちを見て心を痛めるのは、私たちが劣っているからではなく、無条件に愛しておられるからです。パウロが福音を語るのも、この愛に基づいています。
3.まとめ
アグリッパ兄妹は、これまでのヘロデ家の人物と比べれば、表面的にはまともに見えるかもしれません。しかし実際には、罪を抱え、権力にしがみつき、不安の中で生きていました。
私たちはそのように人の評価を気にして生きるのではなく、神の愛を受け入れ、その愛に応えて生きる者となりましょう。
そうする時、パウロやイエスのように、どんな暗闇の中にあっても、揺るがず堂々と生きることができるのです。

