20251009死の淵で輝く(使徒25:6-12)

20251009早天祈祷会

聖書:使徒25:6-12
題目:死の淵で輝く
賛美:341、342

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会


1.本文解説

(1)フェストによる裁判の開始

フェストはエルサレムに約八日から十日ほど滞在した後、カイサリヤに戻り、裁判を開きました。この滞在期間は、必要な業務を処理するためのものであり、それが終わるとすぐに戻ったのは、パウロの問題を扱うためでした。

彼は裁判長の席に着き、公の場で正式な裁判を開始します。パウロはこの公の場に呼び出されましたが、これは彼にとって福音を伝える良い機会でもありました。

一方、エルサレムから下ってきたユダヤ人たちは、パウロに対して重大な罪状を申し立てました。その内容は、以前弁護士テルトロが訴えたものと同様であり、律法に対する罪、神殿に対する罪、そして皇帝に対する罪でした。しかし、彼らは証拠も証人も提示することができませんでした。


(2)フェストの新たな提案とパウロの対応

パウロはこれらの訴えをすべて否定しました。状況はこれまでと同じ繰り返しとなり、本来であれば無罪判決で裁判を終えることができたはずでした。

しかしフェストは、ユダヤ人たちの歓心を得るために、「エルサレムに上って、私の前で裁判を受けるか」とパウロに提案します。これは当初の方針と異なる急な心変わりでした。

パウロはこれを拒否します。エルサレムでの裁判は、不正と偽りに満ちたものになることが明らかだったからです。また、彼はローマ市民としてローマの法廷で裁判を受ける権利を持っていました。自分が無罪である以上、ユダヤ人に引き渡される理由はないと主張したのです。


(3)「カイサルへの上訴」と神の導き

そこでパウロは、「私はカイサルに上訴します」と宣言しました。これはローマ市民に認められた権利であり、不当な裁判を避けるために皇帝へ直接訴えることができる制度でした。

当時の皇帝はネロでしたが、この時期のネロはまだ穏やかであり、恐れる必要はありませんでした(彼が残酷な支配者となるのは数年後のことです)。

フェストにとっても、この上訴は都合のよいものでした。ユダヤ人との関係に悩む必要がなくなり、陪席者と協議したうえで、パウロの上訴を受け入れました。

本来であれば、パウロは無罪として釈放されるべきでした。しかし結果として、彼は正当に裁判を終えることができませんでした。

けれども、この出来事の背後には神の計画がありました。それは、パウロがローマでも証しをするという神の御心が成し遂げられるためでした。


2.適用:死の淵で輝く信仰

(1)恐れに支配される人々

この場面には、恐れに支配されている人々が登場します。

ペリクスは賄賂を求めつつ、ユダヤ人を恐れていました。フェストもまた、ユダヤ人の歓心を得るために判断を曲げました。そしてユダヤ人たちがパウロを殺そうとしたのも、彼を恐れていたからです。


(2)パウロの生き方

それに対してパウロは、どのような状況にあっても福音を伝えることを第一に考えていました。

ペリクスやフェスト、ユダヤ人たちの前でも、彼は福音の証しをする機会と捉えていました。その姿を見て、神はパウロをローマへ導かれました。

それはパウロ自身の望んだ方法ではありませんでしたが、神は彼を用いるためにこの道を備えられたのです。


(3)イエスと同じ姿勢

パウロは、不当な裁判を受けながらも、イエスと同じ姿勢で臨んでいました。

彼にとって重要だったのは、自分がどうなるかではなく、神の計画がどうなるかでした。

パウロはこう語っています。
「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それはイエスの命が私たちの身において明らかに示されるためです」(第二コリント4章10節)


3.まとめ

私たちは苦しい時こそ、神を見上げるべきです。
確かなことは、私たちが死の淵に立たされるような状況においてこそ、イエスの命が私たちを通して現れるということです。

その姿を、周りの人々は見ています。
だからこそ、今日一日を生きる中でも、苦しみの中にあるとき、イエスの命が自分のうちに現れていることを覚えましょう。

死の淵においてもなお、神の命は輝いているのです。

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