20250924主だけを待ち望もう(雅歌8:10-14)
20250924水曜礼拝
聖書:雅歌8:10-14
題目:主だけを待ち望もう
賛美:176、キリストの花嫁
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
1.これまでの雅歌(1〜7章)
① 愛とは何か
雅歌1章から7章を通して、「愛とは何か」が繰り返し語られてきました。
花婿の目には、花嫁は「黒いけれども美しい」存在として映ります。これは、愛が世間の評価や外見によって決まるものではないことを示しています。
また、「愛が望む時までは待ちなさい」と語られているように、愛は無理に引き起こされるものではなく、時が満ちるのを待つものです。そして、ひとたび愛が目覚めたならば、すべてを置いて花婿のもとへ向かう決断が求められます。
愛とは、花婿との関係そのものを楽しむことであり、この世のものに満足するものではありません。また、「戸を叩く花婿」に応答すること、すなわち機会を逃さず応答することも重要です。
さらに、「あの人が私のもの」ではなく、「私は私を愛する方のもの」であることを喜ぶこと、そして花婿の願いが自分の願いとなることが、真の愛の姿として示されています。
② 私たちとキリストとの関係
この愛の姿は、そのまま私たちとキリストとの関係に当てはまります。
キリストから見て、私たちは不完全でありながらも愛される存在です。私たちは神の愛によって目覚め、キリストは命を捨てるほどに私たちを愛してくださいました。
そして私たちは、キリストとの関係を楽しむ存在であり、キリストの呼びかけに応答し、従うことを喜びとすることができます。さらに、キリストの願いが私たちの願いとなっていくのです。
2.本文の解釈
① 「私は城壁」―守られた愛
「私は城壁、私の乳ぶさはやぐらのようであった」という言葉は、愛が目覚めるまで純潔を守っていた花嫁の姿を表しています。
彼女は他の男性にとっては攻略できない要塞のような存在でしたが、花婿にとっては安心して入ることのできる安らぎの場所でした。
ここで重要なのは、城壁は自分を守るためだけではなく、花婿に安心を与えるためにも存在するということです。壁を持つことは悪いことではなく、愛のために自分を守る積極的な行為なのです。
② ソロモンのぶどう園―対価による関係
ソロモンはバアルハモンにぶどう園を持ち、それを管理者に任せて利益を得ていました。
このぶどう園は財産の象徴であり、そこでは労働と報酬というルールによって関係が成り立っています。つまり、対価を求める関係です。
③ 「私のぶどう園」―無償の愛
それに対して花嫁は、「私のぶどう園は私の前にある」と語ります。
彼女の持っているものは、ソロモンのように大きなものではありません。しかし、それはルールや報酬のためではなく、自分の意思によって花婿に捧げられるものです。ここに、無償の愛が示されています。
④ 花婿の声を求める花嫁
「園に住む者よ…あなたの声を聞かせてください」という言葉には、花婿の声を切に求める花嫁の姿があります。
ここで「園に住む者」は花婿、「友だち」は働く者たち、「声」は花婿の声を指しています。
花嫁は、義務や規則によってではなく、自由意志によって愛を捧げる存在として、花婿の声を聞きたいと願っています。
⑤ 呼びかけながら待つ愛
「急いでください」という呼びかけは、ただ待つだけではない愛の姿を示しています。
芳しい山々は、親密で霊的に満たされた関係を表し、かもしかや若い雄鹿は、その速さを象徴しています。
⑥ 花嫁の姿
ここに描かれる花嫁の姿は三つにまとめることができます。
第一に、花婿のために自分を大切に守る姿。
第二に、その守ってきた自分を無償で捧げる姿。
第三に、花婿を呼び求めながら待ち望む姿です。
3.適用
① キリストのために自分を大切にする
エペソ5章25〜27節は、キリストが教会を愛し、ご自身をささげられた理由を示しています。それは、私たちを清め、聖なる存在として迎えるためです。
私たちは無力であり、汚れた存在でありながらも、キリストはその命をもって価値を与えてくださいました。だからこそ、私たちは自分を大切にすべきです。
しかし、それは単に自分のためではありません。キリストに自分を捧げるために、自分を守るのです。信仰を「地獄に行かないための保険」のように扱うことは、本来の姿ではありません。
同様に、妻が自分を大切にするのも、自分の価値を誇るためではなく、夫に自分を捧げるためです。結婚を、自分を高める手段として用いることは本来の姿ではありません。
大阪中央教会においても同じです。教会を大切にするのは、自分のためではなく、神様が喜ばれる教会とするためです。外面的な大きさではなく、本質が問われています。
② 見返りを求めない献身
ガラテヤ5章1節は、キリストにあって与えられた自由を語っています。
私たちは罪や死から解放されました。この自由は、どれほど努力しても手に入れることのできないものです。その価値を知るからこそ、見返りを求めずに仕えることができるのです。
もし献身を「損だ」と感じるなら、それはこの自由をまだ十分に理解していないからかもしれません。
結婚においても同じです。一方的に認められないと感じると不満が生まれますが、見返りを求める心そのものが問題となる場合もあります。
「自分のぶどう園は自分のもの」という言葉の通り、相手の反応に関係なく、自分の献身の価値は変わりません。すべてを捧げる覚悟がないなら、結婚は軽く考えるべきではありません。
教会においても、喜んで心から献身することが求められます。礼拝、献金、奉仕は義務であると同時に特権です。強制されたものではなく、自発的な献身を神様は喜ばれます。
③ キリストを待ち望む花嫁として生きる
ヨハネの黙示録22章20節は、「主よ、来てください」という願いを語っています。
キリスト者の究極の望みは、キリストの再臨です。人は誰もが死を迎えますが、多くの人はそれを直視せず、この世の富や名声に望みを置いて生きています。
しかしキリスト者は、キリストに望みを置く者です。
夫婦関係においても、妻が夫の帰りを待つことは健全な関係の表れです。他のものに心を奪われるなら、関係は歪んでしまいます。
同様に、教会に本当に必要なのは、能力や成果ではなく、キリストを待ち望み、見返りなく献身する心です。どれほど多くのものを持っていても、その心がなければ意味がありません。
4.まとめ
私たちはどのような花嫁となるべきでしょうか。
第一に、花婿であるキリストのために自分を大切にする花嫁。
第二に、見返りを求めずに自分をキリストに捧げる花嫁。
第三に、花婿の帰りを待ち望む花嫁です。
このように生きるとき、私たちは祝福に満ちた家庭を築き、また神様に喜ばれる教会を建て上げていくことができるのです。

