20250903誤解と偏見(使徒21:27-30)

20250903早天祈祷会

聖書:使徒21:27-30
題目:誤解と偏見
賛美:305、310

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会


1.本文解説

(1)アジヤから来たユダヤ人による騒動の始まり

七日間の清めの期間が終わろうとしたとき、アジヤから来たユダヤ人たちが神殿でパウロを見つけ、彼を捕らえました。

当時のエルサレムには、百万人以上とも言われるユダヤ人が集まっていました。五旬節はすでに過ぎていましたが、多くの巡礼者たちがそのまま滞在していたのです。そのような中で、パウロは清めのための七日間を神殿で過ごしており、供え物を捧げる時が近づいていました。

そこに現れたのが、アジヤ、特にエペソから来たユダヤ人たちでした。彼らは第二回伝道旅行の際にもパウロを迫害した人々であり、非常に熱狂的な律法主義者でした。ディアスポラからエルサレムに巡礼するほどの強い宗教心を持っていた彼らは、パウロを見つけるや否や、騒ぎを起こしたのです。


(2)誤解と偏見による告発

彼らは大声で叫びました。
「イスラエルの人々よ、手を貸してほしい。この男は、民と律法と神殿に逆らうことを教えている。さらにギリシャ人を神殿に連れ込み、この聖なる場所を汚したのだ。」

彼らの主張は三つありました。
第一に、パウロは民と律法と神殿に反する教えを広めているということ。
第二に、異邦人を神殿の内側に連れ込んだということ。
第三に、それによって神殿を冒涜したということです。

しかし、この告発は事実ではありませんでした。彼らは以前、エペソ人トロピモがパウロと共に町にいるのを見かけ、それをもとに「パウロが彼を神殿に連れ込んだに違いない」と思い込んだだけでした。

実際には、そのような事実はありません。それにもかかわらず、彼らは見てもいないことを見たかのように語り、真実よりも感情を優先しました。彼らにとって重要なのは真実ではなく、パウロを捕らえることだったのです。


(3)暴動へと発展した出来事

この誤解と偏見は、やがて町全体を巻き込む大騒動へと発展しました。

神殿を汚すという行為は、ユダヤ人にとって耐え難い重大な罪でした。そのため、アジヤから来た人々はユダヤ人の宗教心を利用し、人々を煽動したのです。その結果、エルサレム中が騒ぎ出すほどの混乱となりました。

人々はパウロを捕らえ、神殿の外へと引きずり出しました。彼はイスラエルの庭にいたと考えられますが、そこから異邦人の庭へと引き出されたのです。神殿の構造上、聖所は祭司のみ、イスラエルの庭はユダヤ人男性、女の庭は女性までと厳しく区別されていました。

そして、彼らは異邦人の庭でパウロを殺そうとしました。本当にトロピモが神殿に入っていたのであれば、その本人を探すはずですが、彼らはそれをしませんでした。つまり、真実の確認ではなく、怒りと偏見によって行動していたのです。


2.適用

(1)クリスチャンは誤解と偏見の中で生きる

「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。」
(ピリピ人への手紙 1:29)

クリスチャンの人生は、祝福だけではありません。困難もまた与えられます。信仰を持てばすべてが順調になるわけではなく、むしろ誤解や偏見による苦しみを経験することがあります。

しかし、それは異常なことではありません。結婚生活にも喜びと同時に困難があるように、信仰生活にも恵みと試練の両方があります。

大切なのは、その中で何を喜びとするかです。クリスチャンは状況そのものではなく、「共にいてくださるキリスト」を喜びとします。愛する方が共にいるからこそ、困難の中でも耐え、乗り越えることができるのです。

そのためには、キリストとの親しい関係が必要です。表面的な信仰ではなく、日々の交わりの中で主を知ることが求められます。

また、教会としても同じです。祝福だけを求めるのではなく、神が共におられることを喜ぶ共同体であるべきです。困難は避けられないものですが、その中で神と共に歩むことを忘れてはなりません。


3.まとめ

クリスチャンには困難が伴います。誤解や偏見による苦しみも避けることはできません。

しかし、私たちの幸せは状況によって決まるのではなく、キリストと共にいることによって決まります。

キリストと共に歩むとき、どんな困難の中でも、イエスやパウロのように乗り越えていくことができるのです。​ 

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