20260726神の前に正直に生きる(使徒5:1-6)📺
20260726日本語礼拝
聖書:使徒5:1-6
題目:神の前に正直に生きる
賛美:88、497、288
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、 共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。 そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。 売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。 アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。 それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。」
使徒行伝 5:1-6 口語訳
1。初代エルサレム教会の財政管理
初代エルサレム教会では、多くの人が財産を売って持ち寄り、必要に応じて分け合っていました。これは共産主義の勧めではありません。この特殊な形式は、主に2つの要因が考えられます。まず人数的な問題です。使徒行伝4:4を見ると、男性だけで5,000人と書いてありますので、女性や子供も含めれば信徒が10,000人以上いたと考えられます。次に背景の問題です。ペンテコステの際に、遠くから来た巡礼者たちの一部が、エルサレムに生活基盤を持たないまま滞在し、信仰生活を始めたためではないかと考えられます。もし大部分の信徒が地元の住民であったなら、これほど大規模な共有は必要なかったでしょう。実際、他の教会では、信徒が自分の家を持っていたり、収入の中から一部を献金している姿が見られます。
そのような状況の中で、1人の人物が大きな尊敬を集めました。それがバルナバです。彼は自分の土地を売り、その代金をすべて使徒たちの足もとに置きました(使徒4:36-37)。その直後に登場するのが、アナニヤとサッピラです。ルカはこの2組を意図的に対比しています。2人とも土地を売りました。二人とも使徒たちの前に献金を持ってきました。しかし結果は全く違いました。バルナバは教会の励ましとなり、アナニヤは神の裁きを受けました。その違いは何でしょうか。今日は、アナニヤの失敗から、神様が求めておられる信仰について学びたいと思います。
2。本文解説
①アナニヤの捧げ物(1−2)
アナニヤとサッピラの夫婦は土地を売り、その代金の一部を自分たちのために残し、残りだけを献げました(1−2)。とても素晴らしいことです。持っている物を全て捧げなければならない、ということはありません。自分の取り分を確保し、一部を捧げることには何も問題がありません。
ここで問題となるのは、「共謀して、その代金をごまかした」という部分です(2)。ここで使われている「ごまかす」という言葉は、ギリシャ語で「ノスフィーゾ」という単語が使われている、「こっそり自分のために取り分ける」という否定的な意味です。つまり、一部を捧げておきながら「全部献げました」と偽ったことが一番の問題でした。人から、「バルナバのように信仰深い人だ」と思われたかったと考えられます。
② ペテロの指摘(3−4)
ペテロは「どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか」と言いました。「自分の心をサタンに奪われた」とは、アナニヤが悪魔に無理やり操られたという意味ではありません。アナニヤ自身が罪を受け入れ、その心が悪魔に支配される状態になったということです。
では、聖霊を欺くとは何でしょうか。おそらく、アナニヤが妻と計画を立てた時、神様は彼の心に「それはやめなさい」という聖霊の示しを与えたのでしょう。アナニヤには聖霊の声に従って、計画を止める機会があったと考えられます。しかし彼は、その声を無視し、最後まで嘘を貫きました。
アナニヤは、使徒をはじめとした教会の人々さえ納得させれば良いと思ったのかも知れません。しかしペテロは、「人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」と、嘘に対して厳しい宣言をしました。教会は単なる人間の集まりではなく、聖霊が共にいる神の共同体です。つまり教会を騙すことは、その教会の中にいる神様をも騙すことになるのです。
③アナニヤの受けた裁き(5−6)
ペテロの言葉を聞いている途中で、アナニヤは倒れて息を引き取ってしまいました。このことを聞いた人々は皆、非常な恐れを感じたとあります。これはペテロに対してではなく、神様に対しての恐れです。そして、若者たちがアナニヤの遺体を包んで運び出し、埋葬しました。嘘ひとつで命が失われた結果を見ると、確かに恐ろしさを感じます
このお話を聞くと、多くの人は「嘘をついただけで死ぬのは厳しすぎる」と考えます。そして、聖書はその理由を細かく説明していません。しかし、旧約聖書を見ると、神様は新しい時代が始まる時に、しばしば厳しい裁きを下しています。特に、ヨシュア記には、戦利品を自分の天幕に隠したアカンによって、イスラエル全体が敗北した事件が描かれています。1人の罪が家庭を汚し、イスラエルの共同体を汚した結果でした。その結果アカンの家族は罰を受けたのです。
教会といった神の共同体は、いつの時代でも、神様の聖さを大切にし、罪に対して慎重になる必要があります。1人の偽善が教会全体を汚すことがあるからです。確かに自分を大切にすることは良いことですが、「自分さえ良ければいい」、そして「自分さえ良く見えればいい」という思いは、共同体全体を危険にする罪です。アナニヤは「人によく見られたい」思いが強くなり、神様に嘘をつくという大きな罪を犯すようになってしまいました。
3。適用
① 神様が求めているのは、立派さではなく正直さ。
アナニヤの問題は、お金を一部残したことではありません。「全部献げました」と偽ったことでした。最初は全部献げようと思っていても、途中で心が変わることはあります。それはアナニヤだけでなく、私たちにもある弱さです。そして神様は、その弱さをご存じです。だからこそ、「全部は献げられませんでした」と正直に言えばよかったのです。
「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
ヨハネによる福音書 14:6 口語訳
イエスは、自分自身を真理だと教え、私たちに真理の道を歩むことを望んでいます。たとえ私たちが多くの捧げ物をしたとしても、そこに偽りが混ざっていれば、神様は喜びません。どんなに教会に立派な人がいたとしても、そこに嘘が混ざっていれば、その教会は神様と関係のないものになってしまいます。逆に、私たちがどんなに貧しくて弱くても、誠実に真理に生きようとするなら、神様は喜びます。真理に生きる人々が集まる教会は神様の力が働きます。神様が求めているのは、優秀な人ではなく、誠実に真理を求める人なのです。
②人の評価よりも、神様を第一にしましょう
アナニヤの心には、「人から信仰深いと思われたい」という欲望がありました。「人によく見られたい」こと自体は、誰にでもあります。しかし、その思いが神様よりも大きくなる時、罪へと変わります。アナニヤは、自分の本当の姿を隠し、「信仰深い自分」を演じるために、嘘をつきました。当然、人にどう思われても関係ない、というわけにはいきません。人間関係は大切ですし、配慮する心は必要です。しかし、神様を差し置いて、人に良く見られたいという心には注意が必要です。
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。」
マタイによる福音書 22:36-37 口語訳
信仰とは、神様を第一にして生きることです。残念ながら、私たちは弱いため、ときには神様よりも人の評価を優先してしまいます。しかし、その時に必要なのは、自分を取り繕うことではなく、悔い改めることです。ところが、嘘は、自分の本当の姿を隠し、悔い改める機会まで失わせてしまいます。だからサタンは、私たちに偽りを語らせ、悔い改めから離れさせようといつも誘惑しているのです。
③私たちは神様の前で誠実に生きましょう。
今の時代は、SNSなどを通して、人からどう見られるかを気にしやすい時代です。立派に見せるために、良い部分を見せ、失敗や弱さを隠そうとします。しかし、神様は立派に見える私たちよりも、正直な私たちを求めておられます。「できません」「失敗しました」「助けてください」と素直に言える人を、神様は喜ばれます。
「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。」
マタイによる福音書 6:1 口語訳
イエスは、神様よりも人に良く見られることを望むなら、神様からの祝福は得られないと教えています。神様が望むのは、「立派に見える人」や「完璧に見える人」ではありません。同様に教会は、完璧な人が集まる場所ではありません。神様の前で互いに誠実に歩み、聖霊の導きに従う人々が集まる場所です。私たちは、人に立派に見せるために集まった存在ではなく、神様に喜ばれる者として集まった存在だと言うことを忘れないでください。
4。まとめ
バルナバもアナニヤも、同じように土地を売り、使徒たちの前に献げ物を持ってきました。しかし、一人は神様に栄光を帰し、一人は人からの誉れを求めました。その違いは、献げた金額ではなく、神様の前で正直であったかどうかでした。
神様が求めておられるのは、立派に見える信仰ではありません。神様を第一にし、真理のうちを歩む誠実な信仰です。私たちは弱さのゆえに失敗することがあります。しかし、その時に神様は、私たちが自分を飾ることではなく、正直に悔い改め、聖霊の導きに従うことを望んでおられます。
どうか私たちも、人の前で良く見せようとするのではなく、神様の前で正直に歩みましょう。そして、偽りを退け、真理であるイエス・キリストに従うことで、神様に喜ばれる残りの人生を歩んでください。

