20260318ビルダデの裁き(ヨブ19:25-26)📺
20260318水曜礼拝
聖書:ヨブ19:25-26
題目:ビルダデの裁き
賛美:368、370
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
“わたしは知る、/わたしをあがなう者は生きておられる、/後の日に彼は必ず地の上に立たれる。 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、/わたしは肉を離れて神を見るであろう。”
ヨブ記 19:25-26 口語訳
1。おさらい
まず、これまでの流れを振り返ってみましょう。
■ 1周目
①エリパズ:経験に基づき、「罪には罰」という神の摂理を説いた
②ビルダデ:伝統に基づき、「悪は滅びる」という神の正義を説いた
③ゾパル:感情に基づき、神の立場に立ってヨブを批判した
■ 2周目
①エリパズ:ヨブの態度に対して言葉を増やし、さらに強く「あなたは罪人」だと裁いた
→ ヨブは「証人は天にいる」と反論
②ビルダデ:ヨブの反論に対して「お前は終わりだ」と、さらに激しく断罪
→ ヨブは「贖う方は生きている」と告白
本日は、ビルダデの激しい裁きに対して、ヨブがどのような信仰告白をしたのかを見ていきます。
2.本文解説(ビルダデの裁きとヨブの信仰)
■ ビルダデの攻撃(ヨブ記18章)
ヨブの自分の罪を認めない反論に対して、ビルダデの言葉は非常に攻撃的になっています。「いつまで言葉に罠を設けるのか」(18:2)とありますが、これは早くそのわけのわからない話をやめろ、という意味です。ヨブの苦しみの言葉はもはやビルダデに届いていません。ビルダデは「おが身を引き裂く者よ」(18:4)と言っています。神様ではなくヨブ自身が自分を苦しめている、ヨブは自分で仕掛けた罠に、自分でかかっているのだと言っています。さらに、ビルダデは自分の信念に従って、ヨブの家に呪いを語り、ヨブを「神を知らない者」と断定し、悪人は必ず滅びると決めつけています(18:13–21)。つまり、「お前は悪人だから終わりだ」、希望も何もないという宣告です。
■ ヨブの反論と信仰告白(ヨブ記19章)
それに対して、ヨブは叫びます。「いつまで私を悩まし打ち砕くのか」(19:2)と、ビルダデの言葉を拒絶します。確かにヨブは家族もしもべも友人も全てを失いました。そして、その理由を神様は沈黙して答えてくれません。その中でヨブは「しかし、私は知っている」と告白します。これは「感じている」でも「願っている」でもありません。確かに「知っている」のです。ここにヨブの確信を見ることができます。何を確信しているのでしょうか?
■ 「私を贖う方は生きておられる」(19:25)
「贖う方(ゴーエール)」とは、親族として責任を負う者、復讐を果たす者、奴隷状態から解放する者、土地を買い戻す者と言った意味があります。つまり、無実を証明し、回復してくれる存在なのです。誰も味方しない中でも、最後に立っていてくれるお方がいるのです。しかも「生きておられる」のです。確かに、神様は沈黙してヨブの問いに答えてくれていません。しかし、ヨブは「神様は死んでいない、終わっていない」と告白しているのです。そして最後の時に立つと言っています。つまり、神様が最終的に現れ、正しさを明らかにすることを確信しているのです。
■ 「わたしは肉を離れて神を見るであろう」(19:26)
「わたしの皮がこのように滅ぼされたのち」という言葉から、ヨブの体が大きく崩壊しており、死が近いと考えていることがわかります。この地上での回復は期待していない可能性もあると読み取れます。しかし「わたしは肉を離れて神を見るであろう」と告白しています。死を越えた希望があります。自分がこの世で終わりを迎えたとしても、完全な終わりではないのです。死んで終わりではなく、死んだ後も神様との関係が続いているのです。「なぜ苦しむのか」の答えは分からなくても、「神様は私を贖ってくださる」という確信があり、希望があると告白しているのです。
3.適用(終わりではない信仰)
ビルダデはヨブに「あなたは終わりだ」と言いました。神様を用いて自分の理論を守るためです。そこには、人を裁く信仰の醜さがありました。しかしヨブは言いました。「私を贖う方は生きている」と。重要なのは、たとえ自分が悪かったとしても、すべてを失ったとしても、神様に苦しめられていると感じても、 神が贖ってくださるという希望を持つことなのです。
■ 横田さんの希望
横田早紀江さんは、娘の横田めぐみさんの失踪によって、大変な日々を経験しました。1977年、登校前に「今日はいいわ」と、コートを断って出て行った娘との会話が、最後になりました。どこを探しても見つからず、手がかりもなく、自分を責め続ける日々が続きました。人々は、「因果応報だ」「先祖のまつり方が悪い」「育て方が悪い」などと心ない言葉を投げかけました。横田早紀江さんは毎日涙を流し、何度も人生を終えたいと思いました。
しかしある日、聖書の言葉に出会います。「本人が罪を犯したのでもなく、またその両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」(ヨハネ9:3)。この言葉が、大きな慰めとなりました。その後ヨブ記を読み、神の視点が自分の考えと全く違うことを知りました。娘は帰って来ず、問題は解決していません。しかし横田早紀江さんは神様に希望を置き、1984年、教会で洗礼を受けました。そしてこう告白しています。「この出来事がなければ、キリストに出会うことはなかった」と。
そして、再び娘と再会できる希望を持って活動を続けた結果、北朝鮮による拉致の事実が明るみになりました。各地の拉致被害者たちと手を取りあい、1997年にようやく国家が動き出すようになりました。2002年には北朝鮮が拉致の事実を認め5人を帰国させました。2014年には横田めぐみさんの娘と会うことができました。2017年には、宗教は信じないと頑なだった夫の横田滋さんも洗礼を受けて、神様に希望を置くようになりました。2020年には横田滋さんも天に召され、2026年現在、拉致被害者の親は90歳の横田早紀江さんお一人になりましたが、今も希望を失わずに戦っています。
■ イエス様の希望
イエス様も、無実の罪で裁判を受け、十字架につけられ、人々から見捨てられました。そして十字架の上では神様も沈黙しました。しかし、神様に希望を置いたイエス様は復活しました。またその人生を通して、多くの人々を救いに導きました。横田早紀江さんも、苦しい道のりの中でも、神様に希望を置き、同じような拉致被害者を慰め、助けました。夫も救いの道に導きました。希望は自分の強さから来るのではありません。希望は神様を通して持つことが出来るのです。
■ 私たちの希望
皆さんは今、どんな苦しみの中にいますか?人に苦しみを打ち明けたとしても、なかなかわかってもらえるものではありません。人々は「そんなの苦しみのうちに入らないよ」「自業自得だよ」と言うかも知れません。原因も解決策も分からずどうしたらいいか分からないかも知れません。しかし、神様に望みを置く者には希望があります。なぜなら「私を贖う方は生きておられる」からです。
イエスは言いました「わたしはよみがえりであり、いのちである」(ヨハネ11:25)。私たちは終わりではありません。隣の人も終わりではありません。「終わった」という言葉ではなく、「私を贖う方は生きておられる」とヨブのように告白しましょう。信仰とは、問題が解決することではなく、神との関係が始まることです。
4.まとめ
神様は人を裁くためではなく、贖うために待っています。人々がビルダデのように「終わりだ」と言うところで、神様は「まだだ」と言われます。ヨブはすべてを失っても、「贖う方は生きている」と告白しました。その贖い主は、イエス・キリストとして私たちに現されました。だから私たちは、どんな状況でも終わりではなく、希望の中に生きることができることを忘れないで下さい。

