20260218エリパズの裁き(ヨブ16:19-20)📺

20260218水曜礼拝

聖書:ヨブ16:19-20

題目:エリパズの裁き

賛美:370、380

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

“見よ、今でもわたしの証人は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。 わたしの友はわたしをあざける、/しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。”

‭‭ヨブ記‬ ‭16‬:‭19‬-‭20‬ 口語訳‬

1。四旬節(レント)

 四旬節は、本日の灰の水曜日から始まり、日曜日を除いて40日後に復活祭を迎える期間です。実際の日数は約46日ですが、日曜日は主の復活を祝う日であるため数に含めません。これは毎週の日曜日が「小さな復活祭」であるという理解によります。

 この40という数字は、聖書において試練・準備・変化の期間を象徴しています。イエスの荒野での40日間の断食(マタイ4章)、ノアの洪水の40日間の雨(創世記7章)、モーセのシナイ山での40日(出エジプト記24章)、そしてイスラエルの荒野40年(民数記14章)などがその例です。

 歴史的には、2世紀頃には復活祭前の断食は1〜2日程度でしたが、3〜4世紀にかけて期間が拡大し、4世紀頃には40日間として定着しました。キリスト教が公認(313年)された後、砂漠の教父たちの修道運動の影響を受け、四旬節は教会全体の霊的訓練として広まっていきます。こうして修道士だけでなく、すべての信徒が霊的な「荒野」を経験する期間となりました。

 四旬節の目的は、祈り・断食などを通して自分を顧み、悔い改め、神に心を向けることです。苦行そのものが目的ではありません。本来は洗礼志願者の準備期間として用いられ、復活祭の夜に洗礼を受ける伝統がありました。つまり四旬節とは、古い自分が死に、キリストの復活と共に新しい命へ向かう「死から命への旅」なのです。

 また、砂漠の教父たち、特にアントニウス(251–356)などは、断食・沈黙・祈りによって神を求めました。その歩みの中で彼らは、苦しみは必ずしも神の罰ではないことに気づいていきます。当時は「苦しみ=神からの罰」という理解が一般的で、人々は苦しみの原因を説明しようとしていました。しかし彼らは他人を裁かず、沈黙し、神の前に立とうとしたのです。

 教会はこの霊性を受け継ぎ、四旬節を「教会全体が荒野を歩む期間」としてきました。それは他人を裁く期間ではなく、自分を神の前に置く期間です。この視点から、今日の御言葉を見ていきます。

2。 本文解説(ヨブ記15〜17章)

 エリパズの基本的な考えは一貫しています。「苦しみ=罪」という理解です。彼は「神は正しい。だから苦しみには原因があり、それは罪である」と考えました。一回目の発言では経験や知恵に基づく理論によってヨブを慰めようとしましたが、二回目になるとヨブを罪人として決めつけ、裁くようになります。ここに人間の神学の限界があります。正しい理論が、苦しむ人を傷つけることがあるのです。

 それに対してヨブは反論します。ヨブが必要としていたのは苦しみの説明ではなく、共にいてくれる存在でした。しかしエリパズは言葉を増やし、原因を説明し、苦しみに意味を与えようとします。その結果、慰めの言葉は裁きの言葉へと変わってしまいました。ヨブは叫びます。「あなたがたは皆、慰めにならない慰め手だ」(16:2)。これは単なる怒りではなく、「苦しむ人に必要な慰めとは何か」という問いです。

 さらにヨブは神に向かって涙を流します。「私の目は神に向かって涙を注ぐ」(16:20)。彼は苦しみを偶然や人間だけの問題としてではなく、神との関係の中で受け止めています。だからこそ怒りも嘆きも隠さず神の前に訴えます。重要なのは、ヨブが神から離れていないということです。

 17章では、ヨブは死を身近に感じ、希望が失われたように語ります。しかしその中でも「私の証人は天にいる」(16:19)と告白します。人は理解しなくても、神は理解してくださるという希望が残されています。ヨブの信仰とは、答えを持つ信仰ではなく、神を手放さない信仰でした。つまり、エリパズは苦しみを説明しましたが、ヨブは苦しみの中で神に向かって涙を流し続けたのです。

3。適用

 まず、言葉を減らす信仰を持ちましょう。イエスは「人をさばくな。自分がさばかれないためである」(マタイ7:1)と言われました。私たちは苦しみの前で説明し、答えを求めようとして口数が多くなります。「それはこれのせいだ」「こうしないといけない」と結論を急ぎ、人を責めてしまいます。エリパズもヨブの苦しみを聞かず、自分の説明を押し通しました。その結果、慰めるどころか裁く者になってしまいました。

 次に、言葉で裁くなら言葉で裁かれることを覚えましょう。「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイ7:2)。これは善悪の判断をするなという意味ではありません。聖書は「互いに教え、戒め合いなさい」(コロサイ3:16)とも教えます。愛をもって教えることは慰めになり得ます。しかし「教えてあげたのに」と自分の正しさが前に出ると、それは裁きへと変わります。

 さらにイエスは、「なぜ兄弟の目のちりを見ながら、自分の目の梁を認めないのか」(マタイ7:3)と語られました。私たちは他人の小さな問題はよく見えても、自分の弱さには気づきにくいのです。人を直そうとする前に、自分の心を神の前に差し出すことが求められています。相手の苦しみは、自分自身を省みる機会でもあります。他人を裁くより、自分の内側を照らしていただくことが信仰の第一歩です。

 四旬節の実践もここにつながります。砂漠の教父たちは祈り、断食し、沈黙しました。それは言葉を減らして神の声を聞き、人の痛みに耳を傾けるためでした。四旬節は他人を説明する季節ではなく、自分を神の前に置く季節です。言葉を減らし、祈りを増やし、共にいる慰め手となる歩みへと招かれているのです。

4。まとめ

 四旬節は40日の荒野の旅です。その旅の中で主は私たちに問いかけます。あなたの言葉は慰めになっているでしょうか。それともエリパズの言葉のように裁きになってはいないでしょうか。願わくば私たちが、正しい説明を語る人ではなく、共に涙する人となりますように。そしてこの四旬節の歩みを通して、復活の朝の新しい命へと導かれますように。アーメン。

5。祈り

①自分の信仰のために

言葉を多くして人を苦しめる者ではなく、

神の前に静まり、聞く心を持つ者となれるように。

② 肉親の家族のために

家族の中で互いを理解し合い、責め合う言葉ではなく、

支え合い、共に涙する愛が育まれるように。

③ 教会の家族のために

教会がエリパズのように説明し裁く共同体ではなく、

共に祈り、共に担い合う慰めの共同体となるように。

四旬節の歩みを通して、言葉よりも祈りが増し、

復活の希望に向かって共に歩む教会となるよう祈りましょう。

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