20260204ビルダデの慰め(ヨブ8:4-6)📺

20260204水曜礼拝

聖書:ヨブ8:4-6

題目:ビルダデの慰め

賛美:342、369

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

“あなたの子たちが彼に罪を犯したので、/彼らをそのとがの手に渡されたのだ。 あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、 あなたがもし清く、正しくあるならば、/彼は必ずあなたのために立って、/あなたの正しいすみかを栄えさせられる。”

‭‭ヨブ記‬ ‭8‬:‭4‬-‭6‬ 口語訳‬

この聖句は半分あっているが、半分間違っている。しかし私たちがよく間違うやり方。

1。シュヒ人ビルダデ

①シュヒ(ヨブ8:1)

 ❶アブラハムがケトラとの間にもうけた子の一人シュワの子孫(創25:2)

 ❷シュワ=名詞、シュヒ=形容詞

 ❸アブラハムの家系に連なる一族として、先祖からの伝統を重んじる背景をもつ一族。

②ビルダデ

 ❶「愛を混ぜ合わせることによって混乱させるもの」という意味と考えられる。

  エリパズに対するヨブの反論で我慢できなくなったビルダデがもたらしたもの。

 ❷テマン人エリパズは、「神を知る最も賢い人間」の代表だったのに対し、

  シュヒ人ビルダデとは、「伝統的な信仰者の代表」

 ❸ エリパズは「自分の体験」を根拠に語ったが、

  ビルダデは「先祖の伝統」を根拠に語ることになる

2。本文解説

①ビルダデの主張(8:4–6)

 ❶大前提:神の統治原理は絶対にブレない(8:3)

  ⑴「神は公義を曲げるだろうか。全能者は正義を曲げるだろうか。」

  ⑵神の支配原理=因果応報であり、勧善懲悪。正義は勝つ。

  ⑶正しい者は栄え、悪い者は裁かれる。ここまでは大きな問題ない。

 ❷ヨブの子どもの死の解釈(8:4)

  ⑴「子供達が神に罪を犯したので、その罪のために子供達をその罪の手に渡された。

  ⑵子どもたちの死を個人的な罪への神の直接的裁きだと断定。

  ⑶慰めの皮を被った裁きの宣告をしている。態度の問題が出てきている。

 ❸条件付きの希望(8:5–6)

  ⑴「もし神に熱心に求め、全能者にあわれみを乞うなら…もし純粋で正しくなるなら、

   神は必ずあなたを顧み、あなたの住まいを回復される」

  ⑵一見、希望の言葉に見えるが、慰めの形をした信仰の踏み絵をしている。

  ⑶現在の苦しみを、まだ正しくない証拠と決めつけている。ヨブに当てはまらない。

 ❹ビルダデの神学(8:8–9)

  ⑴「先祖に尋ねて学べ。我々は昨日生まれた者にすぎず、何も知らないのだから。」

  ⑵これまでの話が、先代の知恵、伝統への絶対的な信頼による事がわかる。

  ⑶神様を因果応報、勧善懲悪の理論の中に閉じ込めてしまっている。

ヨブの反論(主にヨブ9–10章)

 ❶神が正しいことは否定していない(9:2)

  ⑴「確かにそのとおりだ。しかし、人が神の前に正しくありえようか。」

  ⑵神は正しいが、人間はその正義を単純に扱えないと言っている。

  ⑶ 「神は義である」という前提が、「神の義は説明できる」考えに歪んでいる事を指摘。

 ❷現実は因果応報や勧善懲悪だけでで説明できない(9:24)

  ⑴「世は悪しき者の手に渡されている」

  ⑵ヨブは、悪人が栄え、正しい者が苦しむ現実を直視している。

  ⑶人間が整えた「神の義」理論の伝統より、ヨブは「壊れた現実」を見ている

 ❸ヨブの核心的叫び(10章)

  ⑴「私は自分の命をいとう」=生きているつらさを表現している。

  ⑵無罪を主張しながら、神に説明を求め、神と対話しようとしている。

  ⑶伝統による慰めは、ヨブの心を癒す事ができなかった。

ビルダデの慰めの問題点

 ❶伝統が神の代わりになってしまった

  ⑴ビルダデは神を信じているが、実際には「伝統化された神」を信じている。

  ⑵ 人間理解の限界のため神の義と人間が理解できる神の義とは全く同じにならない。

  ⑶だが「勧善懲悪」という伝統の理論で、神様を小さくしてしまった。

 ❷伝統が人を裁く道具になってしまった。

  ⑴「苦しんでいる → 正しくない」「回復しない → 悔い改めが足りない」

  ⑵本来の伝統は、人を正しく神に、救いに導くためのもの。

  ⑶だが伝統主義が、人を判断し裁くための道具になってしまった。

 ❸慰めの決定的欠如:共に泣かない

  ⑴エリパズは「正しさ」で慰めようとし、ビルダデは「伝統」で慰めようとした。

  ⑵苦しむ者の隣に座ること答えよりも、沈黙と共感。これに欠けていた。

  ⑶真の慰めは「正しい言葉」でも「正しい理論」でもない。

3。適用

①一度立ち止まり、伝統で人を裁こうとしていないか省みましょう。

“弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。”

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭9‬:‭2‬-‭3‬ 口語訳‬

 ❶イエスは因果応報、勧善懲悪の枠を壊した

  ⑴冷酷だったわけではなく、「正しく理解したい」という信仰的関心からの質問。

  ⑵しかし前提はビルダデと同じ 「苦しみには必ず原因がある」という伝統的な考え。

  ⑶イエスは「誰の罪か」ではなく、「神は何をなさるか」が重要だと答えた。

  ⑷ 伝統的な考えから外れることは私たちのそばでも起こることを伝えている。

 ❷「ずっと正しいと信じられてきた」伝統の危険性

  ⑴伝統は真理を支えることも、拒むこともあることを忘れてはいけない。

  ⑵中世教会と天動説「聖書的だ」「昔からそうだ」→科学者を裁き、真理を封じ込めた。

  ⑶十字軍は政治と信仰を混ぜ、暴力を正当化した→多くの人々を虐殺した。

  ⑷大学名、学位、肩書、能力で人を評価する現代教会→迎合しない人々を批判。

  ⑸問題は信仰ではなく、信仰理解を絶対化すること。人間の伝統は絶対ではない。

 ❸神様はひとつの型に閉じ込められるお方ではない。

  ⑴ヨシュア記のカナン攻略もすべてが同じ方法ではなかった

  ⑵エリコのような奇跡もあれば、地道な戦いもあった。

  ⑶私達はこの方法でうまくやってきた、が通用しない。

 ❹ 権威を「神の言葉」にのみ置きましょう。

  ⑴聖書以外を参考にするのはいいが、混ぜることは危険である。

  ⑵ビルダデは信仰と伝統を混ぜ、正しい言葉を正しく用いる事ができなかった。

  ⑶混ぜる時、私達は過ちを犯しやすい。例)神の言葉+自分の感情

  ⑷私たちの使命は人を説明することでも、人を裁くことでもない。

  ⑸裁きを神様に任せ、苦しむ者の隣に座ること。

4。まとめ

① 正しさも伝統も、本来は人を裁くためではなく、

 人を神へ導き、生かすために与えられたものです。

 それが裁きの道具になったとき、私たちはビルダデの立場に立ってしまいます。

② イエスは「誰の罪か」を問う弟子たちに、

 「神は何をなさるか」を見よと言われました。

 因果応報ではなく、勧善懲悪ではなく、

 神の憐れみとみわざに目を向けるように導かれました。

③ 私たちの最終的な権威は、人の伝統ではなく神の言葉です。

 裁きは神に委ね、私たちは答えを出す者ではなく、

 苦しむ者の隣に座る慰め手として歩んでいきましょう。

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