20251206言葉を通して思いを知る(エズラ7:6-10)
20251206土曜祈祷会
聖書:エズラ7:6-10
題目:言葉を通して思いを知る
賛美:449
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
聖書朗読(エズラ7:6–10)
このエズラはバビロンから上って来た。彼はイスラエルの神、主がお授けになったモーセの律法に精通した学者であった。その神、主の手が彼の上にあったので、その求めることを王はことごとく許した。
アルタシャスタ王の七年に、またイスラエルの人々および祭司、レビびと、歌う者、門衛、宮に仕えるしもべなどがエルサレムに上った。
そして王の七年の五月にエズラはエルサレムに来た。すなわち正月の一日にバビロンを出立して、五月一日にエルサレムに着いた。その神の恵みの手が彼の上にあったからである。
エズラは心をこめて主の律法を調べ、これを行い、かつイスラエルのうちに定めとおきてとを教えた。
Ⅰ.なぜ「律法学者エズラ」が必要だったのか
まず、なぜこの時代にエズラのような人物が必要とされたのかを見ていきます。
第一に、聖殿は再建されていましたが、民の心は建て上がっていませんでした(エズラ記1〜6章)。クロス王の命令によって聖殿は再建され、ゼルバベルとヨシュアが民を導きました。外部からの妨害を乗り越え、ついに聖殿は完成しました。しかし、建物は整っても、民の信仰の内側は整えられていなかったのです。
第二に、外敵からは救われていましたが、内側の信仰は弱いままでした(エステル記)。エステルの働きによって、イスラエルの民は絶滅の危機から守られました。しかし、内なる信仰は弱く、偶像礼拝や異邦文化との混合が広がっていました。
このような状況の中で、神はエズラという人物を立てられました(エズラ記7〜10章)。聖殿再建から約57年後、今度は「律法の再建」が必要となったのです。問題は外ではなく、内側――イスラエルの霊的な緩みと腐敗でした。そこで神は、心を建て直すための指導者として「律法学者エズラ」を遣わされたのです。
Ⅱ.エズラとはどのような人物だったのか
では、エズラとはどのような人物だったのでしょうか。
まず、エズラという名前には「助け」という意味があります。彼はバビロンという異国の地で育ち、本来の祭司としての働きが難しい環境にありました。その中で彼は会堂において律法を学び、書記官として訓練されました。
ここで出てくる「サファール」という言葉は、「正確に数え、記し、考え、語る」という意味を持ちます。つまり、エズラは御言葉を学び、それを正しく伝える専門家であったのです。
また彼は、「主の手が彼の上にあった人物」でした(7節)。聖書は、「主の手が彼の上にあったので、王は彼の求めることをすべて許した」と語ります。彼が用いられた理由は、地位や能力ではなく、神が共におられたことでした。
では、なぜこの時に学者が必要だったのでしょうか。聖殿はすでに建っていました。外敵からも守られていました。しかし、神の心が失われ、信仰が次の世代に受け継がれていなかったのです。だからこそ神は、御言葉を「調べ、行い、教える」人物を必要とされたのです。
Ⅲ.エズラが行った三つの働き(エズラ7:10)
エズラの働きの中心は、7章10節に集約されています。そこには三つの重要な姿勢が記されています。
① 律法を「調べる」(Seek)
律法そのものはすでに存在していました。しかし民は、その中にある神の心を見失っていました。エズラは「心を定めて」律法を調べました。
御言葉は、単に読むだけではなく、心を整えて向き合う時に、初めて神の思いが見えてきます。私たちが旧約聖書を学ぶ理由もここにあります。それは、律法を通して現される神の心に出会うためです。
② 律法を「行う」(Do)
御言葉は知識のためではなく、従うために与えられています。エレミヤ17章10節には、「主は心を探り、思いを調べ、行いの実に従って報いる」とあります。
どれだけ御言葉を知っていても、それを行わなければ意味がありません。ただ知っているだけなら、サタンと同じです。神が求めておられるのは、従順の心です。
③ 律法を「教える」(Teach)
エズラは、自分だけで終わらず、民に教えました。その目的は、互いに支え合うためであり、次の世代に信仰を継承するためです。
どれほど立派な聖殿があっても、信仰は自然には受け継がれません。だからこそ神はエズラを用いて、真の礼拝者を育てられたのです。
Ⅳ.真の礼拝に必要なもの ― 聖書の学び
ここから分かることは、建物(聖殿)は宗教生活を支えることはできても、信仰そのものを守ることはできないということです。
礼拝の目的は、神に近づくことです。そのためには、神の心を知るための御言葉の学びが不可欠です。神がエズラを立てられたのは、心からの礼拝を回復するためでした。
Ⅴ.イエス・キリストが示された「御言葉に生きる者」の姿
実は、イエス・キリストもまた、エズラと同じ三つの姿勢を示されました。
第一に、御言葉を調べる姿です。12歳の時、宮において教師たちと語り合い、聞き、尋ねられました(ルカ2:46)。
第二に、御言葉に従う姿です。「わたしの食物は、わたしを遣わした方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることである」(ヨハネ4:34)と語られました。
第三に、御言葉を教える姿です。山上の説教やたとえ話を通して人々に教え、弟子たちを訓練し、次の世代へ信仰を託されました。
このように、イエスは究極の「御言葉に生きる者」であり、私たちの模範であられます。
Ⅵ.結論 ― エズラのように、キリストのように
エズラ7章10節に示されている三つの姿勢は、今の教会に最も必要なものです。
第一に、「調べる」こと。聖書の文字だけでなく、その背後にある神の心を求めることです。
第二に、「行う」こと。知識で終わらせず、御言葉を日々の生活の中で実践することです。
第三に、「教える」こと。自分だけで終わらず、次の世代に信仰を伝えていくことです。
エズラは偉大な能力があったから用いられたのではありません。「心に決めて」御言葉に生きたからこそ、神に用いられました。
今日、私たちの教会にも同じことが求められています。御言葉を求め、御言葉に従い、御言葉を次の世代に継承していく教会です。
私たちがエズラのように、そして主イエスのように御言葉に生きる時、神は私たちの上にも「主の手」を置いてくださるのです。

