20250910私は私を愛する方のもの(雅歌6:1-4)
20250910水曜礼拝
聖書:雅歌6:1-4
題目:私は私を愛する方のもの
賛美:215、キリストの花嫁
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
1.真実の愛とは何か
(1)愛と恋の違い
愛と恋には本質的な違いがあります。
愛は「心」が真ん中にあるため真心(진심)であり、恋は「心」が下にあるため下心(속셈)と言えます。
愛は自己犠牲によって与えるものですが、恋は自己満足のために受け取ろうとするものです。
また、愛は見返りを求めませんが、恋は見返りを求めます。
このように、人は神様を知らなくても、愛とは本来献身的なものであることをどこかで知っています。
それゆえ、私たちクリスチャンは、どのような時にも献身的な愛を捨ててはなりません。なぜなら、私たちはすでに自分自身を神様にささげた存在だからです。
2.献身的な愛とは何か
(1)背景:冷めてしまった花嫁の心(雅歌5章)
ある日、新婚生活の中で出来事が起こります。理由は明らかではありませんが、花婿が夜遅く帰ってきました。
花婿は「わが愛する者よ、開けてほしい。頭が露で濡れている」と言います(5:2)。
しかし花嫁は「着物を脱ぎ、足も洗ったので、もう開けられません」と拒みました(5:3)。
その後、花婿が戸の穴から手を差し入れるのを見て、花嫁は心を動かされ扉を開けに行きます(5:4)。しかし、その時すでに花婿はいなくなっていました(5:6)。
花嫁は外へ探しに出ますが、夜中に一人で出歩いていたため、警備員や衛兵に打たれ、上着まで奪われてしまいます(5:7)。それでも彼女は探すことをやめませんでした。
やがてエルサレムの娘たちに出会い、助けを求めます(5:8)。しかし逆に「あなたの愛する人は、他の人よりどこが優れているのか」と問われます(5:9)。
それに対して花嫁は、「私の愛する方は誰よりも優れている」と告白します(5:10)。ここで使われている「ダガール(旗)」という言葉は、基準、勝利、栄光を意味し、雅歌の中で3回用いられています。彼女は花婿の素晴らしさを語り尽くし、「これが私の愛する方です」と証ししました(5:10−16)。
(2)献身的な愛は人の心を動かす(6:1)
花嫁のこの証しを聞いたエルサレムの娘たちは心を動かされ、「一緒に探しましょう」と言います。そしてついに花婿を見つけることができました。
ここで重要なのは、人の心を動かしたのは、お金でも地位でも知恵でもなかったということです。
打たれ、奪われてもなおやめることのできない献身的な愛が、人の心を動かしたのです。
(3)自己中心ではなく献身的な愛(6:3)
花嫁は次のように告白します。
「私は私の愛する方のもの、私の愛する方は私のものです。」
ここに大きな変化があります。以前は「私の愛する方は私のもの」が先でした(2:16)。しかし今回は「私は私の愛する方のもの」が先になっています。
これは人生の優先順位が、自分中心から相手中心へと変わったことを意味します。
真の愛とは、自分の満足ではなく、相手の満足を第一とする愛です。
(4)献身的な愛は美しく、しかも強い(6:4)
花婿は花嫁にこう語ります。
「あなたはテルザのように美しく、エルサレムのように麗しく、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」
テルザは北イスラエルのかつての首都で「喜び」を意味し、エルサレムは南ユダの首都で「平和」を意味します。また「ダガール(旗)」は勝利と栄光の象徴です。
つまり、献身的な愛は、喜びと平安だけでなく、勝利をもたらす力強さを持っているのです。
献身的な愛は決して弱くも愚かでもありません。むしろ恐ろしいほどに強く、勝利をもたらします。
(5)まとめ
献身的な愛は人の心を動かします。
真の愛は自己中心ではなく、献身的な愛です。
そして献身的な愛は、美しく、しかも力強いものです。
3.パウロに見る献身的な愛
(1)献身的な愛は人の心を動かす
パウロはこう言っています。
「福音を宣べ伝えても誇りにはならない。そうせずにはいられないからだ。もし伝えないなら、わたしはわざわいである。」(Ⅰコリント9:16)
パウロは賞賛のためではなく、止められてもやめることができない愛によって福音を語りました。
人に止められても、打たれても、やめられないほどイエスを愛していたのです。
これは雅歌の花嫁と同じ姿です。打たれ、奪われてもなお探し続ける愛がありました。知恵や技術ではなく、その愛が人の心を動かしました。
私たちの信仰生活も同じです。重要なのは能力や知恵ではなく、献身的な愛です。
(2)自己中心ではなく献身的な愛
パウロはまたこう語ります。
「わたしは自由であるが、多くの人を得るために自らすべての人の奴隷となった。」(Ⅰコリント9:19)
本来、人の上に立てる立場でありながら、自ら進んで仕える側に立ちました。これは受ける立場ではなく、与える立場です。
これは雅歌の花嫁と同じ変化です。
「私のもの」から「私はあなたのものへ」と変わりました。
私たちも問われます。
まだ人の上に立とうとしていないでしょうか。
まだ「自分のもの」を作ろうとしていないでしょうか。
聖書は、キリスト者が仕えるために存在していることを教えています。
(3)献身的な愛は美しく強い
「わたしの力は弱さの中で完全に現れる」(Ⅱコリント12:9)
パウロは外見的にも弱さを持っていたと言われます。しかし神は、その弱さの中に十分な恵みを与えられました。
雅歌の花嫁も同様です。黒く焼けた弱い存在でしたが、その献身的な愛ゆえに「美しく、恐ろしい」と評価されました。
ここで重要なのは「ダガール(旗)」の関係です。
花嫁は花婿を誇り、花婿は花嫁を誇る関係です。そして人々もそれを認めるようになります。
私たちも同じです。
自分が強くなるのではなく、
「私は弱いが、神様が私の旗です」と告白するとき、
神は「あなたはわたしの旗である」と言われます。
そして人々もそれを認めるようになります。
キリスト者は、自分の力や正義ではなく、献身的な愛によって戦う存在です。
4.まとめ
献身的な愛は人の心を動かします。
知恵や地位では、人の心を真に動かすことはできません。
本当の愛は自己中心ではなく、献身的な愛です。
自分ではなく、愛する方を第一とする愛こそが真の愛です。
そして献身的な愛は、美しく、しかも強いものです。
この世では弱く見られるかもしれませんが、神の心を動かし、真の勝利をもたらします。
私たちの勝利は、才能や努力ではなく、献身的な愛によるのです。
この一週間、「私は私を愛する方のもの」と告白しながら歩んでいきましょう。

