20250820すべてを置いて(雅歌3:1-4)

20250820水曜礼拝

聖書:雅歌3:1-4
題目:すべてを置いて

賛美:436、キリストの花嫁

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会


序論:二兎を追う者は一兎も得ず

「二兎を追う者は一兎も得ず」ということわざがあります。
これは古代ローマに由来する格言で、「二つを同時に得ようとすると、どちらも失う」という意味です。

日本では、欲張らず謙遜に生きるための戒めとしてよく用いられますが、韓国では「二兎を獲る(두 마리 토끼를 잡다)」という逆の表現もあります。

しかし本質的な教えは同じです。
大切な一つを手に入れるためには、他を手放す必要があるということです。

これは私たちの信仰にも当てはまります。


1.雅歌の流れの確認

これまで雅歌を通して、次のようなテーマを学んできました。

  • 第1回:「黒いけれど美しい」
  • 第2回:「愛が望む時までは待つ」

そして今回は、「すべてを置いて愛に向かう」というテーマです。

本日の箇所は、婚約時代の女性が見た夢の場面です。


2.本文解説:花嫁の愛の姿

(1)夜ごとに求める愛(1節)

花嫁は夜、床の上で「わが魂の愛する人」を探します。
しかし見つけることができず、呼んでも答えがありません。

ここで「夜」が複数形であることから、これは一晩ではなく、毎晩の出来事であることがわかります。
花婿は羊飼いとして忙しく、なかなか会いに来ることができません。

そのため花嫁は眠ることもできず、愛する人に会いたい思いが睡眠欲を上回っています。

「わが魂の愛する人」とは、魂の深いレベルで求めている存在であり、自分でも止められないほどの愛を意味しています。


(2)安全を捨てて探しに行く(2節)

花嫁はついに立ち上がり、町の中を歩き回って愛する人を探します。
しかし、それでも見つかりません。

当時、女性が夜に外出することは非常に危険でした。
このことから、これは夢の中の出来事であるとわかります。

それでも彼女は、安全な家を出て、危険な町に出ていきます。
それほどまでに、愛する人に会いたいのです。

また「探す」という言葉が繰り返されており、必死さが強調されています。


(3)危険を顧みない問いかけ(3節)

花嫁は町の警備員に出会い、「愛する人を見ませんでしたか」と尋ねます。

しかしこの警備員が味方か敵かはわかりません。
場合によっては、連れ戻される危険もあります。

それでも彼女は、自分の安全よりも、愛する人を見つけることを優先しています。


(4)ついに出会い、離さない(4節)

やがて花嫁は、愛する人に出会います。

そして彼をしっかりとつかまえ、決して離しません。
さらに、自分が最も安心できる場所である母の家へ、そして自分が生まれた部屋へと連れて行きます。

ここには、「やっと出会えた」という強い喜びと、「もう失いたくない」という思いが表れています。


3.結婚前の女性の三つの心

この箇所から、花嫁の三つの心が見えてきます。

(1)夢に出るほど会いたい愛

彼女は毎晩夢に見るほど、愛する人を求めています。
現実ではあり得ない行動を夢で見るほど、その愛は強いものです。


(2)すべてを捨てるほどの愛

彼女は、眠りも、安全も、常識も手放して愛する人を探しました。

結婚とは、このように自分の人生の多くを差し出す決断でもあります。
時間、自由、計画、さらには自分自身さえも相手のために用いるようになります。


(3)自ら行動する愛

彼女はただ待つのではなく、自分から探しに行きました。

愛するがゆえに、じっとしていられず、自ら動き出すのです。


4.キリストへの愛を問い直す

では私たちは、この花嫁のようにキリストを愛しているでしょうか。


(1)毎日会いたいと願っているか

「見たことがないのに愛し、見ていないのに信じて喜んでいる」(1ペテロ1:8)

私たちにも、神を感じられない「夜」があります。
しかしその時、他のものに逃げるのではなく、キリストを求めているでしょうか。

キリストの顔を見ることはできなくても、御言葉を通して出会うことはできます。
毎日御言葉に触れることこそ、花婿に会うことです。


(2)すべてを置いて愛しているか

「心を尽くして神を愛せよ」(マタイ22:37)

私たちは、どちらかを選ばなければならない時があります。
その時、他のものを手放してキリストを選ぶことができるでしょうか。

イエスは、ご自身の栄光も命も、私たちのために捨てられました。
それならば私たちも、キリストのために手放す決断が求められます。

「二人の主人に仕えることはできない」(マタイ6:24)とある通り、何かを得るためには、何かを手放す必要があります。


(3)愛は神から来る

「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからである」(1ヨハネ4:19)

私たちの愛は、自分から生まれるものではなく、神から与えられるものです。

キリストがどれほど私たちを愛してくださったかを知る時、その愛が私たちの中に流れ込んできます。

「わたしを求めるなら、わたしに会う」(エレミヤ29:13)とあるように、真剣に求める者に神はご自身を現してくださいます。


5.結論:すべてを置いて会いに行こう

この世の人々でさえ、自分の欲しいもののためには、多くのものを犠牲にします。

それなのに、私たちはキリストのために何も手放せないのでしょうか。
なぜ恐れるのでしょうか。

この世のものは、私たちを本当に愛してはくれません。
科学や知識、お金や地位も、私たちを救うことはできません。

しかしキリストは、すべてを捨てて私たちを愛してくださいました。

だからこそ、私たちも、

すべてを置いてでも、キリストに会いに行こう。

その時、キリストの愛が私たちの中に豊かにあふれてくるのです。​ 

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