20251231守られた信仰に感謝(ユダ1:24-25)📺
20251231水曜礼拝
聖書:ユダ1:24-25
題目:守られた信仰に感謝
賛美:259、302
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
聖書本文
「あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、わたしたちの主イエス・キリストによって、世々の初めにも、今も、また、世々限りなく、あるように、アーメン。」(ユダ1:24–25)
1.アレクサンダー大王がもたらした世界
アレクサンダー大王(BC356–323)は、敗北を知らない軍事指導者として知られています。
彼はギリシャから小アジア、エジプト、メソポタミア、さらにはインド方面に至るまで広大な地域を征服しました。その軍隊は、後にチンギス・ハンが現れるまで最強と評されるほどでした。地形を読み、敵の心理を突き、少数で多数を打ち破ることに長けていたのです。
この征服によって、文化的にも大きな影響がもたらされました。コイネー・ギリシャ語が共通語として広まり、思想・教育・哲学が地中海世界に広がりました。例えば、「霊は善で肉体は悪である」というような思想もこの流れの中で広がっていきました。
バベルの塔以来分断されていた言語世界が、初めて広範囲で事実上統一されたとも言えます。
(1)聖書的に見た良い影響と悪い影響
この歴史的流れは、神のご計画の中でも用いられました。
旧約聖書はギリシャ語に翻訳され(七十人訳)、新約聖書もギリシャ語で書かれました。アラム語を話していたユダヤ人たちもギリシャ語の聖書を用い、福音は一気に地中海世界へと広がっていきました。
しかし同時に、誤った思想も流れ込んできました。その代表がグノーシス主義です。
グノーシス主義は、「肉体はどうでもよい」「救いは知識によって得られる」という考えを持ち、救いを神の恵みではなく人間の知識にすり替えました。これはエリート意識を生み、「救いは受け取るものではなく、獲得するものだ」という誤りを広げたのです。
2.本文解説:ユダ書の背景と希望
(1)教会を取り巻く五つの危険
ユダの手紙が書かれた時代、教会はさまざまな圧力の中にありました。
ユダヤ主義(律法主義)による宗教的圧力、皇帝崇拝による国家的圧力、異教や多神教による商業的圧力、哲学的合理主義による知的圧力、そしてグノーシス主義による内部からの攻撃です。
特にグノーシス主義は、同じ言葉を使いながら教会内部に入り込み、内側から破壊する危険な存在でした。
(2)偽教師の問題とその危険性
彼らは教会に忍び込み、神の恵みを「放縦」へと変えてしまいました。すなわち、「何をしても赦される」という誤解です。
さらに、キリストの主権を否定し、知識を重んじながら従順を否定しました。その結果、「自分は分かっている」という霊的エリート意識が生まれ、教会に分裂をもたらしました。
この思想は、救いを信仰ではなく「特別な知識」によるものとし、悔い改めや十字架の意味を弱め、キリストへの従順を不要なものとしてしまいます。
私たちは外からの攻撃には備えますが、このような内側からの攻撃には弱いことを覚える必要があります。
(3)それでも神は守られる(ユダ1:24の希望)
そのような状況の中で、ユダは大きな希望を語ります。
神は、私たちをつまずかないように守ってくださるお方です。これは「一度も転ばない」という意味ではありません。むしろ、最終的に倒れきってしまわないように守られるという意味です。転んでも再び立ち上がるように守られているのです。
また、神は私たちを「傷なき者」として立たせてくださいます。これは今すぐ完全になるという意味ではなく、最終的に神の御前に立つとき、完全な者として整えられるという約束です。
さらに、「喜びのうちに」立たせてくださいます。これは苦しみがないという意味ではありません。苦しみを通過しながらも、最終的に喜びの中に立たせてくださるという希望です。
ここで使われている「守る」という言葉(フェラッソー)は、城壁を守る兵士のイメージを持っています。つまり、危険が存在する中で守られるという意味です。神は危険をすべて取り除くのではなく、その中で私たちを守ってくださるのです。
3.適用
(1)守られてきた信仰に感謝する
まず私たちは、自分たちの信仰が守られてきたことを感謝しましょう。
私たちが信仰を守ってきたのではありません。主が守ってくださったからこそ、今ここに立っているのです。
アレクサンダーの世界では、「強い者が勝ち、賢い者が残る」という価値観が支配していました。しかし信仰は、人間の力や知恵によって保たれるものではありません。
イエスは、「だれもわたしの手から奪い去ることはできない」(ヨハネ10:28)と語られました。私たちが強かったのではなく、主の御手が強かったのです。
だからこそ、「主よ、ここまで守ってくださってありがとうございます」と心から感謝しましょう。
(2)弱さを認め、神に委ねて生きる
神は、倒れない信仰を約束しているのではありません。倒れても、再び立ち上がらせる信仰を与えてくださるのです。
イエスはペテロに対して、「あなたの信仰がなくならないように祈った」と語られました(ルカ22:31–32)。ペテロは実際に倒れましたが、主は彼を再び立たせました。
神の守りとは、転ばせないことではなく、倒れたままで終わらせないことなのです。
だからこそ、「私の人生を主に委ねます」と告白しましょう。私たちは自分を強く見せる必要はありません。知識や力も、誇るためではなく、神をより深く信頼するために与えられているのです。
(3)ユダの謙遜に学ぶ
ユダは、自分がイエスの兄弟であるにもかかわらず、「イエス・キリストの僕、ヤコブの兄弟」と自らを紹介しました(ユダ1:1)。
これは彼が権威を誇らなかったこと、そして人の視線から解放された自由な人であったことを示しています。
彼はすでに、「自分の力による人生」から「神の守りによる人生」へと変えられていたのです。
4.最後に
今年、私たちの信仰が守られてきたとすれば、それは偶然ではなく、神の恵みです。
アレクサンダーやグノーシス主義は人間の力や知識を誇りますが、そこには感謝がありません。そして最終的には一時的な成功と悲惨な結末しか残りません。
しかし私たちは、人間の力ではなく、守ってくださった主を信頼して生きる者です。
知識のためでも、成功のためでもなく、主を愛し、主に従うために生きる。この歩みこそが、「守られた信仰に感謝する」私たちの新しい年の歩みです。
主に守られてきたことを覚え、心から感謝しつつ、新しい年へと進んでいきましょう。

