20250912神の思いか?人の思いか?(使徒22:17-23)
20250912早天祈祷会
聖書:使徒22:17-23
題目:神の思いか?人の思いか?
賛美:326、336
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
1.本文解説
(1)エルサレムに戻ったパウロへの神の命令
パウロは回心後、エルサレムに戻り、神殿で祈っていました。その時、夢うつつの中で主にまみえ、「すぐにエルサレムを出て行きなさい」と命じられます。
ここに至るまでには約3年の年月がかかっていました。パウロはダマスコからアラビヤへ行き、再びダマスコに戻り、その後エルサレムへと向かい、さらにタルソへと移動しています。
エルサレムは信仰の中心地であり、使徒たちもいました。しかし神様は、そこから離れるように命じられたのです。その理由は、エルサレムにはパウロを殺そうとする者が多くいたこと、そしてパウロの証しを人々が受け入れないことを、主が知っておられたからです。
(2)神の命令に対するパウロの反応
しかしパウロは、この神の命令にすぐには同意しませんでした。
彼はエルサレムに残ろうと考えました。その理由は、かつての自分を知っている人々が多くいる場所であるからです。迫害者であった自分が劇的に変えられた姿を見れば、人々の心は動かされるはずだと考えたのです。
また、エルサレムは神殿がある信仰の中心地であり、福音を伝える上で最も効率的な場所でもありました。このように、パウロの考えは非常に合理的であり、人間的には正しいと思えるものでした。
(3)再び示される神の思いと人々の反応
しかし主は再び、「そこを離れなさい」と命じられます。そしてパウロを異邦人のもとへ遣わすと言われました。
主は、エルサレムの人々がステパノを拒絶したように、パウロの証しも受け入れないことをすでにご存じでした。そのため、エルサレムにとどまることを許されなかったのです。また、ここであえてユダヤ人ではなく「異邦人」に遣わすことが強調されています。
この話を聞いていた人々は、それまで静かに耳を傾けていましたが、「異邦人」という言葉を聞いた瞬間、激しく怒り出しました。
彼らが怒った理由は、単に異邦人伝道そのものではありません。旧約にはヨナの例があり、パリサイ人も異邦人伝道をしていました。問題は、ユダヤ人を経由せずに、メシアが異邦人に直接与えられるという点でした。
つまり、ユダヤ人と異邦人を同列に置くというパウロの主張は、彼らにとって受け入れがたいものであり、背教とみなされたのです。
その結果、人々は激しく叫び、「こんな者は生かしておくべきではない」と言いました。さらに、着物を投げつけたり、ちりを空中にまき散らしたりしました。これは深い怒りと嘆きを表す行動でした。
2.適用
(1)人の思いではなく神の思いに従う
聖書はこう語っています。
「人間に従うよりは、神に従うべきである。」
使徒たちは、サンヘドリンから「イエスの名で教えるな」と命じられました。しかし彼らは、人の権威よりも神の御心を優先しました。社会的な秩序や人間的な判断ではなく、神の思いに従ったのです。
パウロも同じです。かつての彼も、そしてエルサレムの人々も、感情や自分の考えを優先していました。パウロ自身も最初は合理性に基づいて判断しました。
しかし最終的には、神の思いに従う道を選びました。
(2)私たちへの問いかけ
大阪中央教会の聖徒たちにとっても、これは重要な問いです。
どれほど人間的に良いと思えることであっても、神の目にかなわないのであれば、それを手放さなければなりません。
イエスご自身も、人間的な考えではなく、神の計画を優先して十字架に進まれました。
私たちもまた、人の思い、知恵、社会的な正しさがどれほど魅力的に見えたとしても、それが神に従うものでなければ意味がありません。
3.まとめ
どれほど優れたアイデアであっても、どれほど努力し、論理的であったとしても、それが神の栄光につながらないのであれば、手放す必要があります。
人の思いではなく、神の思いを優先するとき、そこに神の栄光が現れます。
私たちは常に、「これは神の思いか、それとも人の思いか」を問いながら歩んでいきましょう。

