20250813愛が望む時までは(雅歌2:4-7)
20250813水曜礼拝
聖書:雅歌2:4-7
題目:愛が望む時までは
賛美:288、キリストの花嫁
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
序論:雅歌をテーマにする理由
雅歌は男女の恋愛や結婚を描いた書ですが、それは単なる恋愛詩ではありません。
神と私たちの関係、すなわち「花婿であるキリスト」と「花嫁である私たち」の関係を表しています。
この雅歌を通して、キリストと私たちの愛の関係を学びます。
先週の振り返り
私たちは「黒いけれど美しい」存在です。
自分自身の状態ではなく、花婿の目に美しいとされているからこそ、美しいのです。
1.竹のたとえ:見えない成長
孟宗竹は、最初の3〜4年ほとんど地上に姿を現しません。
しかしその間、地下では根を張り巡らせ、しっかりと準備をしています。
そして準備が整うと、1日1メートル近く伸び、約2ヶ月で20メートルにも達します。
他の竹より時間はかかりますが、その分、大きく、そして丈夫に成長します。
この姿は、神の働きと待つ信仰の姿をよく表しています。
2.本文解説
(1)1〜3節:花嫁と花婿のまなざし
花嫁は自分を「シャロンのバラ、谷間のユリ」と表現します。
つまり、「ただの花のような存在」にすぎないと考えています。
しかし花婿は、「イバラの中のユリのようだ」と言います。
それは、他とは比べられない特別な美しさを意味しています。
さらに花嫁は、花婿を「森の中の特別なりんごの木」のようだと語り、その下で安心し、その実の甘さを味わっています。
(2)4節:愛の旗のもとに
「彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。」
酒宴の家とは、特別な親密さと祝福の場を表します。
そこで掲げられる旗が「愛」であるとは、花婿の愛が公に示されていることを意味します。
つまり、花婿が花嫁を自分のものとして人々の前で宣言しているのです。
(3)5節:愛に病む心
「干ぶどうで力をつけ、りんごで元気づけてください。私は愛のために病んでいます。」
干ぶどうやりんごは、滋養や癒しの象徴です。
ここで花嫁は、愛に飢え、さらに深い愛を求めている状態にあります。
花婿にもっと愛されたいという渇望が、彼女を「愛の病」にしているのです。
(4)6節:まだ満たされていない抱擁
「彼の左の手が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくれるように。」
これは完全な安心と安息の姿を表しています。
しかしこの表現は未完了であり、まだ完全にその中に入っていない状態です。
つまり花嫁は、その抱擁を強く願いながらも、まだその時が来ていないという緊張の中にいます。
(5)7節:愛のタイミングを待つ
「愛が望む時までは、呼び起こしたり、さましたりしないように。」
ここで花嫁はエルサレムの娘たちに対して、慎みと節制をもって語りかけています。
愛は無理に起こすものではなく、自然に与えられるべきものです。
人の力で操作したり、早めたりすることはできません。
かもしかや野の雌じかを指して誓うという表現は、神の民と神ご自身の前での誓いを意味しています。
(6)花嫁の状態:「いまだ」と「やがて」の間
花嫁は、愛に飢えながらも、まだ満たされていない状態にあります。
この「いまだ」と「やがて」の緊張の中で、彼女は待つことを求められています。
急ぐことも、諦めることも許されません。
ただ、花婿の時を待ち望むこと。それが花嫁としての霊性です。
愛は人の力で作ることはできません。
どれほど口で誓っても、愛そのものを生み出すことはできないのです。
だからこそ、愛の目覚めは尊いものです。
雅歌8:6-7にあるように、愛は死のように強く、大水も消すことができないものです。
そしてこの愛の源は神ご自身であり、愛の目覚めは聖霊の働きによるものです。
3.適用:キリストの花嫁として生きる
(1)私たちは待つ存在である
イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言われました(ヨハネ15:16)。
愛の主導権は花婿にあります。
花嫁である私たちは、そのタイミングを決めることはできません。
だからこそ、焦って早めようとしたり、諦めたりせずに、待つことが求められています。
(2)神の愛は聖霊によって注がれる
「神の愛は、聖霊によって私たちの心に注がれている」(ローマ5:5)
愛の始まりは神の選びであり、聖霊の働きによるものです。
人の力で作り出すものではありません。
だからこそ、私たちは聖霊の働きを妨げてはならず、神の働きを待ち望む必要があります。
(3)大胆に待ち望む花嫁となる
「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ」(詩篇27:14)
問題は困難そのものではなく、それに対する私たちの態度です。
神は私たちの環境ではなく、心の姿勢をご覧になります。
焦りや不安の中で待つのか、それとも喜びと信仰をもって待つのか。
花婿は、花嫁がどのように待っているかを見ておられます。
どうせ待つしかないのなら、喜びをもって、大胆に待ち望むべきです。
結論
私たちは、花婿なるキリストを待ち望む花嫁です。
愛を無理に作り出そうとするのではなく、
神が与えてくださるその時を信じて待ちましょう。
そして、喜びと信仰をもって、
花婿を待ち望む花嫁として歩んでいきましょう。

