20250806黒いけれど美しい(雅歌1:5)

20250806水曜礼拝

聖書:雅歌1:5
題目:黒いけれど美しい
賛美:キリストの花嫁

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会


序論

「エルサレムの娘たちよ、わたしは黒いけれども美しい。ケダルの天幕のように、ソロモンのとばりのように。」(雅歌1:5)

私たちは黒く汚れた存在であり、本来は無価値な者です。しかし、神の目には美しい存在です。それは、神ご自身が私たちに価値を置いてくださったからです。
この事実を自覚し、神に価値を置く人生を歩んでいきましょう。


1.雅歌を選んだ理由

(1)就任式という特別な日

9月21日は高曜翰牧師の就任式です。これはまるで結婚式のように喜ばしい日です。

新しくこの教会の牧師となり、これまでも花嫁の一員として仕えてきましたが、これからはキリストという花婿の友として、教会という花嫁を導く補佐役となります。

ここで重要なのは、牧師が花婿で教会が花嫁になるのではないということです。花婿はあくまでもキリストです。

バプテスマのヨハネは「花婿の友は、花婿の声を聞いて喜ぶ」(ヨハネ3:29)と言いました。
ペテロは「神の羊の群れを牧しなさい。支配者ではなく模範として」(1ペテロ5:2-4)と教えています。
またパウロも「私たちはキリストの僕であり、神の奥義の管理者である」(1コリント4:1-2)と語っています。

(2)結婚と信仰の関係

結婚は、神と私たちの関係を理解するために欠かせないものです。

キリストは私たちの花婿であり、私たちは婚約を終えて結婚を待つ花嫁です。
この結婚という関係を通して、私たちは神との正しい関係を深く理解することができます。

本日は、「花婿から見て花嫁はどのように見えているのか」という視点から見ていきます。


2.婚約前の花嫁の姿

(1)登場人物

雅歌には、花婿と花嫁が登場します。

花婿は牧者であり王であり、キリストを指しています。
彼の愛はぶどう酒よりも甘く、その人格は香油のように香り高く、多くの人々が慕っています。

一方、花嫁は私たちを表しています。
彼女は日焼けして黒く、そのためエルサレムの娘たちから軽く見られていました。

王宮の女性たちは室内にいるため白く、自分を守られていましたが、彼女は外で長時間働いていたため黒くなりました。兄弟たちにぶどう畑の見張りをさせられていたからです。

当時、日焼けは労働者階級の象徴であり、白さは貴族階級の象徴でした。


(2)「黒いけれど美しい」というアイデンティティ

彼女はこう言います。「私は黒いけれど美しい」。

ケダルの天幕のように黒く粗末に見える存在でありながら、同時にソロモンのとばりのように価値ある存在でもあるのです。

なぜ美しいのでしょうか。

それは、黒いこと自体が良いからではありません。
愛する花婿が「あなたは最も美しい」と言っているからです(1:8)。

重要なのは、世間の評価ではなく、愛する方からどう見られているかです。
花婿から見て美しいから、彼女は美しいのです。


(3)信仰者のアイデンティティ

これはそのまま、私たち信仰者の姿です。

私たちは罪人であり、本来は無価値な存在です。
努力すれば人から良く見られることはあるかもしれませんが、自分の力で本当の価値を生み出すことはできません。

しかし、神が認めてくださるから、私たちは価値ある存在となります。

それは私たちの努力や才能によるものではありません。
神が価値を置いてくださるから、私たちは価値があるのです。

だから私たちは、「頑張るから愛される」のではなく、「愛されているから頑張る」のです。

たとえ他の人に否定されても、愛する方が「美しい」と言ってくださるなら、その人は美しいのです。
それゆえに私たちは、「黒いけれど美しい」と言うことができるのです。


3.キリストの花嫁としてのアイデンティティ

(1)黒いままで愛された

「しかし、まだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちへの愛を示された。」(ローマ5:8)

キリストは、私たちが優れていたからではなく、罪人であったその時に愛してくださいました。
その証拠に、ご自身の命をもって私たちを救ってくださいました。

善きサマリヤ人のたとえのように、私たちは倒れて何もできない者でした。
しかしキリストは、敵であるにも関わらず、私たちを助けてくださいました。

私たちは真っ黒な罪人でしたが、キリストが価値を置いてくださったので、「黒いけれど美しい」のです。


(2)愛されて白くされた

「キリストが教会をきよめ、しみもしわもない栄光の姿として迎えるためである。」(エペソ5:26-27)

私たちは黒いままでは滅びてしまう存在でした。
しかしキリストの血によって白くされ、救われました。

それは私たちの努力によるものではありません。

放蕩息子のたとえでも、父は息子が汚れていたその時に抱きしめ、衣を着せ、祝宴を開きました。
白くなったから受け入れられたのではなく、受け入れられたから白くされたのです。

同じように、私たちも「愛されたから白くなった」のです。


(3)教会としての姿

大阪中央教会もまた「黒いけれど美しい」存在です。

確かに私たちは不完全で、問題も多く、誇れるものはありません。
しかし、キリストの愛を受け入れたことで価値ある存在とされています。

そしてその愛に応えて、信仰生活を送り、奉仕をしています。
私たちは今もなお、キリストの愛によって白くされ続けている途中なのです。

教会はキリストの花嫁です。
一人一人がキリストに愛された存在です。

私たちを変えるのは、自分の能力や努力ではありません。
花婿であるキリストのまなざしこそが、私たちを変えるのです。


結論

「黒いけれど美しい」。

この言葉は、私たちの信仰のアイデンティティそのものです。
私たちは罪人でありながら、キリストに愛され、価値ある存在とされました。

だからこそ、キリストの花嫁としての自覚を持ち、 

神に価値を置く人生を、一日一日歩んでいきましょう。​ 

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