20260809裁くのは誰か?(エゼキエル21:1-7)📺

20260809韓国語礼拝

聖書:エゼキエル21:1-7

題目:裁くのは誰か?

賛美:407、410

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

「主の言葉がわたしに臨んだ、 「人の子よ、あなたの顔をエルサレムに向け、あなたの言葉を聖所に向けてのべ、イスラエルの地に向かって預言し、 イスラエルの地に言え。主はこう言われる、見よ、わたしはあなたを攻め、わたしのつるぎをさやから抜き、あなたのうちから、正しい者も悪しき者をも断ってしまう。 わたしがあなたのうちから、正しい者も悪しき者をも断つゆえに、わたしのつるぎはさやから抜け出て、南から北までのすべての肉なる者を攻める。 すべて肉なる者は、主なるわたしが、そのつるぎをさやから抜き放ったことを知る。このつるぎは再びさやに納められない。 それゆえ、人の子よ、嘆け、心砕けるまでに嘆き、彼らの目の前でいたく嘆け。 人があなたに向かって、『なぜ嘆くのか』と言うなら、『この知らせのためである。それが来れば人の心はみな溶け、手はみななえ、霊はみな弱り、ひざはみな水のようになる。見よ、それは来る、必ず成就する』と言え」と主なる神は言われる。」

‭‭エゼキエル書‬ ‭21‬:‭1‬-‭7‬ 口語訳‬

1。見えているものと、神が見ておられるもの

 子どもが小さい時、親が病院に連れて行くことがあります。子どもは思います。「なぜ知らない場所に連れて行くの?」「なぜ痛い注射をするの?」「なぜお父さん、お母さんは助けてくれないの?」子どもには、その瞬間の苦しみしか見えません。しかし親は知っています。「この子の健康のために必要なことだ。」子どもには理解できなくても、親には目的があります。

 もちろん、人間の親は完全ではありません。しかし神様は完全な父なるお方です。私たちの人生においても、一部分だけを見るなら、「なぜこんなことが起こるのか。」「神様は私を見捨てられたのではないか。」と思うことがあります。悪が勝っているように見える時があります。人生を諦めたくなる時もあります。しかし、その出来事の背後で神様が主権をもって働いておられることを知るなら、私たちの受け止め方は変わります。

 私たちは人生の一場面しか見ることができません。しかし神様は、始まりから終わりまでご存じであり、ご自身のご計画の中で導いておられます。エゼキエル21章は、まさにこのことを教えている箇所です。

 エゼキエル書は大きな転換点を迎えます。1章から20章まで、神様は繰り返し、「なぜ裁かれるのか。」を語ってこられました。偶像礼拝、不正、流血、神への反逆。神様は何度も悔い改めを呼びかけられました。しかし21章ではテーマが変わります。もはや「なぜ」ではありません。「誰が裁くのか」それが21章の中心です。人々の目には、バビロンが攻めて来ます。バビロンの軍事力によってエルサレムが滅びるように見えました。しかし神様は言われます。「わたしが剣をさやから抜く」つまり、歴史を動かしているのはバビロンではなく、主なる神ご自身なのです。

2。本文解説

① 主が剣を抜かれる(1−17節)

 「見よ、わたしはあなたに敵する。わたしは剣をさやから抜く。」(3節)剣とは、神様の裁きを意味します。これまで神様は忍耐しておられました。罪を見ても、すぐに裁かれることはありませんでした。しかし、「剣をさやから抜く」とは、神様の忍耐の時が終わり、裁きが実行されることを意味します。だからエゼキエルは人々の前で嘆きます。人々は、「なぜそんなに嘆くのか」と尋ねます。すると神様は、「すべての心は溶け、すべての手は弱り、すべての霊はくじけ、ひざは水のようになる」と言われます。神様の裁きが始まれば、人間の力では立つことができません。

 ここで一つ疑問があります。「正しい者も悪い者も断つ」(3節)とあります。なぜ神様は、正しい者まで断たれるのでしょうか。これは、「義人も神様に捨てられる」という意味ではありません。エゼキエル18章では、義人は神様の前に生きることが約束されています。ここで語られているのは、国家に対する歴史的な裁きです。戦争が起こる時、町全体がその影響を受けます。ダニエルもエゼキエル自身も、神様に忠実でしたが捕囚という苦しみを経験しました。しかし、苦難を受けることと、神様に見捨てられることは違います。神様は最後には義人と悪人を正しく裁かれます。しかし歴史の中では、神様の民全体が懲らしめを経験することがあるのです。

② 主は歴史を支配される(18−27節)

 神様はエゼキエルに、バビロン王が進む道を書かせます。バビロン王ネブカドネザルは北から南へ進軍しました。シリア地方を通り、ヨルダン川東側の分岐点まで来ます。そこから道は二つに分かれます。一つはアンモンの首都ラバへ向かう道。もう一つはユダの首都エルサレムへ向かう道です。

 ネブカドネザルは、どちらを先に攻めるか決めるために占いをしました。聖書には三つの方法が記されています。一つ目は、矢を振って決める方法。二つ目は、テラピムという偶像に尋ねる方法。三つ目は、動物の肝を見る方法です。当時のバビロニアでは、羊などの動物の肝臓の形や状態を見て、神々の意思を判断しようとする「肝占い」が行われていました。

 もちろん、神様は占いを認めておられません。では、なぜ聖書はこの出来事を記しているのでしょうか。それは、神様が占いを肯定されたからではありません。むしろ、ここで示されているのは、異教の王も、異教の文化も、そして人間の計画さえも、神様の主権の外にはないということです。

 ネブカドネザルは、「占いによって決めた」と思いました。しかし実際には、神様がその出来事を用いて、ご自身の裁きを進めておられました。人間の目には偶然に見えることがあります。人間が決定したように見えることがあります。しかし、神様の御手から離れて起こることは一つもありません。歴史を動かしているのは占いではありません。軍事力でもありません。主なる神様です。

なぜアンモンではなく、ユダだったのか(28−32節)

 では、なぜ占いの結果はエルサレムを指したのでしょうか。アンモンが正しかったからでしょうか。いいえ、そうではありません。アンモンもまた、神様の前に罪ある国でした。そのため、この章の最後ではアンモンに対する裁きも宣告されています。つまり、アンモンは裁かれなかったのではありません。ただ、裁きの順番が後になっただけです。

 ここにも神様の主権があります。誰を、いつ、どのように裁くのか。それを決めるのは人間ではなく、神様です。私たちは時々、「なぜ悪い人が栄えているのか。」「なぜ神様はすぐに裁かれないのか。」と思うことがあります。しかし、神様が沈黙しておられることは、悪を認めておられることではありません。神様には神様の時があります。人間には見えないところで、神様は正しく歴史を導いておられるのです。

3.適用

① 私たちは、強者の権威の中ではなく、神様の主権の中で生きている

 エゼキエル21章は、バビロンの軍事力の話ではありません。また、占いの話でもありません。この章の中心は、神様の主権の話です。人々の目には、「バビロンが勝った」と見えました。ネブカドネザルが強かったから、エルサレムは滅びたように見えました。しかし神様は言われました。「剣を抜いたのはわたしである」つまり、歴史を動かしているのは人間の力ではなく、主なる神様なのです。

 今日の私たちも同じです。世界情勢、経済、政治、人間の計画や力によって歴史が動いているように見えます。しかし聖書は、そのすべての背後におられ、歴史を支配しておられる方がおられることを教えています。人間は自分の計画を進めます。時には、人が好き勝手に行動しているように見えることがあります。しかし、神様の主権の外で起こることは一つもありません。人間は自分の思いで歩んでいるように見えても、最終的には神様の御手の中で歴史は進んでいきます。だから私たちは、目の前の状況だけを見て恐れたり、絶望したりしてはいけません。

 これはイエス・キリストの十字架にもつながります。イエス様が十字架につけられた時、人々の目には、人間の悪意によって起こった出来事に見えました。ユダはイエス様を裏切りました。ユダヤ人指導者たちはイエス様を憎み、ローマの権力を利用して十字架につけました。人々はユダを裏切り者として責めました。ユダヤ人指導者たちを責めました。確かに、彼らの行動には罪がありました。しかし、それで終わりではありません。もし悪魔がその瞬間を見るなら、「自分の計画が成功した。」と思ったかもしれません。神の子を殺し、救いの計画を壊したと思ったかもしれません。しかし、実際には反対でした。十字架は悪魔の勝利ではありませんでした。それは神様が永遠の救いのご計画を成し遂げられる出来事でした。

 ペテロはこう語っています。「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知によって引き渡された方を、不法な者の手によって殺してしまいました。」(使徒2:23)人間の罪深い行動も、悪魔の策略も、神様の主権を超えることはできません。しかし、それは人間の罪が許されるという意味ではありません。ユダの裏切りも、指導者たちの憎しみも、ローマの不義も、神様の前では責任ある罪でした。しかし神様は、その罪さえも超えて、ご自身の救いの御業を完成されたのです。

 だから私たちは、目に見える状況だけで判断してはいけません。悪が勝っているように見える時があります。人が好き勝手にしているように見える時があります。しかし、神様の主権の外で起こることは一つもありません。バビロンの剣の背後にも神様がおられたように、十字架の苦しみの背後にも神様の救いのご計画がありました。だから私たちは、目の前の出来事だけを見て恐れるのではなく、すべてを治めておられる主を信頼して歩むのです。

② 重要なのは、人の前ではなく、神様の前でどのように生きているか

 では、神様の主権を信じる者は、どのように生きるべきでしょうか。それは、人を見るのではなく、神様を見る生き方です。私たちが問われることは、「私はあの人より良い信仰者なのか」ということではありません。私たちは、知らないうちに人と比べながら生きています。「あの人より成功している」「あの人より認められている」「あの人より信仰が強い」そのような比較の中に、充実した人生を求めてしまいます。

 しかし、神様が求めておられる充実した信仰生活は、それとは違います。充実した生活とは、人と比べて自分がどれだけ上にいるかを確認することではありません。充実した信仰とは、「人と比べて私はどうなのか」ではなく、「神様の前で私はどのように歩んでいるのか」を問うことです。エルサレムの人々は、「私たちはアンモンよりましだ」「私たちは異邦人ではなく、神様に選ばれた民だ」と思って安心していました。しかし、神様が問われたことは、「他の国より良いか」ではありませんでした。神様が問われたのは、「あなたは、わたしに対してどのように生きているのか」ということでした。信仰とは、他の人との比較によって自分を安心させることではありません。神様との関係の中で、自分自身を見つめることです。

 これは、イエス様がペテロに語られたことともつながります。復活されたイエス様は、ペテロに、「わたしに従いなさい。」と言われました。その時、ペテロは後ろを振り返り、ヨハネを見て尋ねました。「主よ、この人はどうですか。」するとイエス様は答えられました。

「それがあなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:22)ペテロは、自分の使命よりも、他の人の将来を気にしました。「ヨハネはどうなるのですか」「ヨハネと私は違うのですか」と比較したのです。しかし、イエス様がペテロに求められたことは、「ヨハネと比べなさい」ということではありませんでした。「あなた自身が、わたしに従いなさい。」ということでした。信仰生活とは、他の人の人生を評価することではありません。神様が私に与えてくださった道を、神様の前で忠実に歩むことです。

 私たちは時々、人の評価を気にします。人から認められることを求めます。しかし、本当に大切なのは、「人が私をどう見るか」ではなく、「神様が私をどう見ておられるか」です。神様の愛と恵みによって救われた私たちは、人と競争するために生きるのではありません。神様の愛に触れた私が、今日どのように神様に応答して生きるのか。それが信仰生活です。人を見る人生ではなく、神様を見上げる人生。比較ではなく、感謝。競争ではなく、従順。それこそが、神様が私たちに望んでおられる歩みです。

4。まとめ

 エゼキエル21章は、歴史を支配される主の前にへりくだり、神様の御前で誠実に歩むよう私たちを招いています。人間が好き勝手に行動しているように見える時があります。悪が勝っているように見える時があります。しかし、主の御手はそのすべての上にあります。

 バビロンの剣の背後にも神様がおられました。十字架の苦しみの背後にも神様の救いのご計画がありました。だから私たちは、目に見える状況だけを見て恐れるのではなく、すべてを治めておられる主を信頼します。

 では、裁くのは誰でしょうか。バビロンではありません。人間でもありません。歴史を支配し、正しく裁かれる方は、主なる神様です。主が剣を抜かれるお方であり、歴史を支配されるお方であるなら、私たちは人ではなく主を恐れ、比較ではなく主への忠実さを求め、神様の御前で誠実に歩む者となりましょう。このイエス様の「あなたは、わたしに従いなさい」という御声を聞きながら、今日も主の主権の中で歩んでいきましょう。

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