20260809ステパノの生き方(使徒7:54-60)📺

20260809日本語礼拝

聖書:使徒7:54-60

題目:ステパノの生き方

賛美:90、182、370

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

「人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。」

‭‭使徒行伝‬ ‭7‬:‭54‬-‭60‬ 口語訳‬

1。ステパノの説教

 ステパノの説教(使徒7章)は、イエスの「山上の垂訓」(マタイ5−7章)を除けば、新約聖書の中で最も長い説教です。ステパノは、「モーセと神様とを冒涜し、神殿と律法に逆らう言葉をやめない」という理由でサンヘドリン(議会)に連れてこられました(使徒6:11−14)。そして裁判官である大祭司の前で、弁明が許された時に、この説教を語ったのです。不思議なのは、彼が命の危険を目の前にしていながら、「兄弟たち、父たちよ」と優しく語りかけ、イスラエルの歴史をこれほど冷静に、順序立てて語っていることです。

 彼はアブラハム、ヨセフ、モーセ、そして神殿について語りました。彼が伝えたかったことは何でしょうか。第一に、神は神殿だけにおられる方ではないということです。第二に、モーセが預言した「あの預言者」がイエス・キリストであるということです。第三に、イスラエルは昔から神が遣わした者を拒み続けてきたということです。そして最後に、「あなたがたがそのイエスを裏切り、殺した」「あなたがたは心も耳も神に逆らっている」と語りました。

 今日の箇所は、その説教の結末です。プライドを激しく傷つけられ、自分たちの感情を抑えられかった人々からリンチを受けて、ステパノは命を落とします。サンヘドリン(議会)はそれを注意するどころか黙認しました。人間的には「失敗」のように見えるこの出来事ですが、同時にクリスチャンとしての生き方を私たちに教えています。私たちはステパノの最後から何を学ぶべきでしょうか。一緒に見ていきたいと思います。

2。本文解説(7:54–60)

①人々は心の底から激しく怒り、歯ぎしりをした(54)

 「歯ぎしりをする」という言葉は、ただ腹が立ったという程度ではありません。のこぎりで木を切るような激しい怒りや、獲物に飛びかかろうとする獣の姿を表す言葉です。

 以前、ペテロがサンヘドリン(議会)で裁かれた時も、人々は怒りました。その時はガマリエルが立ち上がり、暴走を止めました。しかし、今回は誰も止める人はいませんでした。人は、自分の罪を指摘される時、悔い改めるか、怒るかのどちらかになります。

②ステパノは天を見つめた(55-56)

 人々はステパノを見ていました。しかしステパノは、人々ではなくを見ていました。すると神の栄光と、神の右に立っておられるイエスが見えました。イエスは以前、「あなたがたは人の子が力ある方の右に座し、天の雲に乗って来るのを見る」と言われました。その言葉が真実であることを、ステパノは見たのです。

 しかもイエスは「座って」ではなく、「立って」おられました。忠実に使命を終えようとするしもべを迎えるために立っておられる姿を見ることができます。

③町の外で石打ちにされた(57-58)

 人々は耳をふさぎ、大声で叫び、一斉にステパノへ殺到しました。彼を町の外へ追い出し、石で打ち殺しました。神殿の中で死刑を執行するわけにはいかなかったので、町の外へ連れ出されたのです。証人たちは着物を脱ぎ、それをサウロという青年の足元に置きました。着物を脱ぐのは石を正確に投げるためです。

 このサウロが、後にパウロとなり、異邦人世界へ福音を伝える使徒になります。その時は誰も想像していませんでした。人間には失敗に見えても、神様はその出来事を次の救いの計画へ用いておられました。

④ステパノの最後の祈り(59-60)

ステパノは二つの祈りをささげました。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」そして、「この罪を彼らに負わせないでください。」これは十字架のイエスの祈りそのものです。イエスは「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです。」また、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と祈られました。

 ステパノはキリストのように生き、キリストのように死にました。そして聖書は「死んだ」とは書かず、「眠りについた」と記しています。クリスチャンにとって死は終わりではなく、神のもとへ帰る休息だからです。

3。適用

 ステパノの最後が私たちに伝えている事は何でしょうか。それはクリスチャンの持つ死への向き合い方です。

①重要なのは、生きるか死ぬかではなく、誰に迎えられるかです。

 私たちは「死んだら終わり」だと考え、「どうすれば助かるか」を考えます。ガマリエルがその場にいたら助かったのでしょうか。イエスのように有名ならローマが介入したのでしょうか。「神の右にイエスがおられる」と言わなければ助かったのでしょうか。しかし、聖書はその答えを教えていません。ダニエルは救い出されました。バプテスマのヨハネは殉教しました。ペテロは助けられました。ステパノは石打ちにされました。私たちには、その違いを完全に理解することはできません。

 しかし共通していることがあります。彼らは皆、神様に受け入れられていたということです。ステパノは最後に人々ではなく、天を見上げました。そして神の栄光と、右に立って迎えてくださるイエスを見ました。イエスは言われました。

「イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭11‬:‭25‬ 口語訳‬

誰も死から逃げる事はできません。これは真実です。そして、多くの人は、死が終着点だと考えます。しかし、クリスチャンにとって、死は終着点ではありません。イエスキリストを信じる事によって、死は、神様のもとへ帰る通過点と変わったのです。これはとても重要な変化です。たとえ寿命が何年か伸びたからといって、死が終着点のままなら、何の意味があるでしょうか。大切なのは、生き延びることではなく、神様に迎え入れられることです。皆様がステパノのように神様に迎えられるよう祝福します。

②真理は、死への恐れからも私たちを自由にします。

 人は誰でも死を恐れます。そして死への恐れが大きくなると、人は真理よりも自分の安全を優先するようになります。「本当のことを言ったら嫌われるかもしれない。」「信仰を表したら苦しむかもしれない。」「黙っていた方が安全ではないか。」そう考えて、真理を隠してしまうことがあります。しかし、死への恐れに支配された人生は、本当の自由とは言えません。

 ステパノに対して怒り、歯ぎしりした人々も、表面的には強い人に見えました。しかし実際には、彼らは恐れに縛られていました。神殿を失うことを恐れ、自分たちの立場を失うことを恐れ、自分たちの間違いを認めることを恐れました。そのため、自分たちの罪を明らかにする真理を語ったステパノを受け入れることができませんでした。

 しかし、ステパノは違いました。彼の前には石を持った人々がいました。逃げる場所もありませんでした。死が目の前にありました。それでもステパノは、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と語りました。なぜでしょうか。ステパノは死を恐れなかったからではありません。死よりも大きなものを見ていたからです。

 人々はステパノの体を傷つけることはできました。しかし、彼の信仰、希望、そして魂を奪うことはできませんでした。なぜなら、彼の人生は人の評価や、この世の安全によって決まっていなかったからです。イエスは言われました。

「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。」

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭8‬:‭32‬ 口語訳‬

真理とは、ただ正しい知識を持つことではありません。イエス・キリストを知り、イエスに従って生きることです。だからステパノは、死を前にしても自由でした。一方で、真理を拒んだ人々は、怒りと恐れに支配されました。怒りと恐れに生きる人生、死を前にしても真理に生きるステパノの人生。どちらが本当に自由でしょうか。皆様がステパノのように、最後までキリストを見上げ、真理の中で自由に生きることができるよう、皆様を祝福します。

③ただ死を待つのではなく、使命を果たすために生きていきましょう。

 ステパノの姿を通して、私たちはもう一つ大切なことを教えられます。それは、クリスチャンはただ死を恐れずに待つ存在ではなく、与えられた使命を果たすために生きる存在だということです。ステパノは、死が目の前に迫っている時でさえ、自分の身を守ることだけを考えませんでした。「どうすれば助かるか」ではなく、「何を伝えるべきか」を考えました。彼はアブラハム、ヨセフ、モーセから続くイスラエルの歴史を語り、その歴史の完成者であるイエス・キリストを伝える使命を果たしました。

 しかし、それを聞いていた人々は違いました。彼らは神様から与えられた使命を忘れ、自分たちの立場や名誉、宗教的な誇りを守ることに心を奪われていました。神を礼拝していると思いながら、実際には自分自身を守るために生きていたのです。その結果、神が遣わされたイエスを拒み、真理を語るステパノを殺そうとしました。

 人は死を遠ざけようとして、自分のために生きようとします。財産を蓄え、立場を守り、安心できる環境を作ろうとします。しかし、どれほど自分のために生きても、死を避けることはできません。だからこそ、私たちは「死から逃げるための人生」ではなく、「使命を果たすための人生」を生きる必要があります。聖書はこう教えています。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」

‭‭エペソ人への手紙‬ ‭2‬:‭10‬ 口語訳‬

 私たちは、正しいから生かされているのでも、立派だから生きているのでもありません。神様が私たち一人一人に与えられた使命があるから、生かされているのです。使命を果たして生きる人は、死をただ恐れるのではありません。いつか必ず来るその日を、主に迎えられる日として待つことができます。イエスは「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25:21)と言って迎えてくれるでしょう。死は敗北ではありません。この地上で与えられた働きを終え、本当の故郷へ帰る日です。ステパノのように、最後まで使命を果たし、愛する主イエスに迎え入れられる日を希望として生きる者となるよう皆様を祝福します。

4。まとめ

 ステパノは、死の恐怖に支配されることなく、最後までキリストを見上げ、真理に生きました。ステパノの最後を通して私たちはどの様に生きるべきでしょうか。

・大切なのは、どれだけ長く生きるかではなく、誰に迎えられるかです。

・イエス・キリストという真理を信じて、死に縛られるのではなく、永遠の命の希望の中で自由に生きていきましょう。

・私たちはただ死を待つ存在ではなく、与えられた使命を果たすために生きる存在です。重要なのは、生きるか死ぬかではなく、死に縛られたまま生きるか、死から解放されて生きるかです。どうかそれを忘れないで下さい。

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