20260802初めから終わりまで神の恵み(マタイ20:1-16)📺
20260802韓国語礼拝
聖書:マタイ20:1-16
題目:初めから終わりまで神の恵み
賛美:289、은혜、302
説教:高曜翰 牧師
場所:大阪中央教会
「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。」
マタイによる福音書 20:1-16 口語訳
1。導入
本日は女子伝道会献身礼拝です。まず最初に、女子伝道会の皆さんの長年の尊いご奉仕に心から感謝を申し上げます。毎週の礼拝の準備、食事や交わりのための働き、教会の清掃、祈り、そして目立たないところでの数え切れない奉仕によって、今日の大阪中央教会が支えられてきました。神様は、その一つ一つをご覧になっています。人には知られていない働きであっても、神様は決して忘れられることはありません。
しかし同時に、長く忠実に奉仕している人だからこそ気をつけなければならない誘惑があります。それは、「私はこれだけ奉仕してきた」という思いが、知らないうちに心に入り込むことです。奉仕は喜びで始めたはずなのに、いつの間にか人と比べたり、評価を気にしたり、「私はこんなにしているのに」というみじめな思いが生まれてしまうことがあります。
今日のイエス様のたとえ話は、まさにそのような私たちの心に語りかけています。今日の御言葉を通して、私たちの奉仕が最後まで喜びに満ちたものとなる秘訣を共に学びたいと思います。
2。自動販売機的信仰
皆さんは自動販売機を使う時、どのような気持ちでしょうか。お金を入れれば、必ず商品が出てきます。もし商品が出てこなければ、「返金してください」と言う権利があります。なぜなら、それは取引だからです。
実は、多くのクリスチャンが知らないうちに、この考え方を神様との関係にも持ち込んでしまいます。「これだけ奉仕した」「これだけ献金した」「これだけ祈った」だから神様は、それに見合った祝福をくださるはずだ。
しかし期待した結果にならないと、「私はこんなに頑張ったのに」「なぜ神様はあの人を祝福するのですか」「神様は不公平ではありませんか」このような不満が生まれます。これが霊的スランプの始まりです。
サタンはこの時、「神様は不公平だ」とささやきます。そして神様ではなく、人を見せます。「あの人を見なさい」「あなたより何もしていないのに」そうすると、神様への感謝は消え、人との比較だけが残ります。イエスはこの危険を、弟子たちの中に見つけました。だから、このたとえ話を語られたのです。
3。本文解説
① このたとえはペテロの質問への答え
この話は突然始まったものではありません。前の章でペテロがイエスに尋ねました。「私たちは何もかも捨ててあなたに従ってきました。私たちは何がいただけるでしょうか。」(マタイ19:27)。イエスは決して「何も与えない」と言われませんでした。19:28-29節では、神の国では何倍もの祝福があり、永遠の命も与えられることを約束されました。しかし最後に、「先の者が後になり、後の者が先になる。」と言われました。そして20章のたとえ話へ続きます。こんな言葉を付け加えたのには理由があります。
つまり、このたとえは「私たちは何がいただけるでしょうか。」というペテロの心に対する警告なのです。イエスは、ペテロの質問の中に、「従った分だけ報いを受けたい」という危険な考えを見抜いておられました。
② ぶどう園の主人のたとえ
主人は朝早く労働者を雇います。最初の人たちとは、一日一デナリで契約しました。
その後、九時、十二時、三時、そして夕方五時にも人を雇います。最初の人だけは契約を結びました。後から来た人たちは、「相当な賃金を払う」という主人の言葉だけを信じました。
夕方になり、最後に来た人から賃金が支払われます。すると一時間しか働かなかった人が一デナリを受け取りました。最初の人たちは、「自分たちはもっと多くもらえる」と思いました。しかし彼らも一デナリでした。約束通りです。主人は何一つ不正をしていません。それなのに彼らは怒りました。問題は賃金ではありません。主人の恵みが気に入らなかったのです。
③ イエスが伝えたかったこと
神の国は取引ではありません。恵みです。最初から働いた人も、最後に来た人も、一デナリを受けたこと自体が恵みでした。ところが最初の人は、途中から神様ではなく、自分を見始めました。「私は一日中働いた」「私は暑さに耐えた」「私はこんなに苦労した」つまり、自分の働きを帳簿につけ始めたのです。
奉仕をしていても、いつの間にか神様ではなく、自分自身を見ています。自分がどれだけ頑張ったか。どれだけ犠牲を払ったか。どれだけ長く奉仕したか。すると必ず人と比較し始めます。比較は嫉妬を生み、嫉妬は不満を生み、不満は神様への不信へと変わります。
だから主人は言いました。「わたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか。」神様の恵みを喜べなくなった時、私たちの信仰は危険な状態にあります。
4。適用
① 神様と取引してはいけない
私たちは、知らず知らずのうちに神様との関係を「取引」のように考えてしまうことがあります。「これだけ祈れば…」「これだけ奉仕すれば…」「これだけ犠牲を払えば…」神様は必ずそれに見合う祝福を与えてくださるはずだ、と考えてしまいます。
しかし、イエスがこのたとえで教えられたことは、神の国は取引の世界ではなく、恵みの世界だということです。主人は最初の労働者に約束どおり一デナリを支払いました。不正は何一つありませんでした。しかし最初の労働者は、「自分はもっと受け取る権利がある」と考えました。その瞬間、彼らは主人との関係を恵みではなく取引と権利で考えてしまったのです。
これは現代のクリスチャンにも起こります。「私は長年奉仕している」「私は人より多く献金している」「私は誰よりも祈っている」だから神様は私をもっと祝福すべきだ、と考え始めるなら、それはペテロが「私たちは何がいただけるでしょうか」(マタイ19:27)と尋ねた時と同じ危険に立っていることになります。
さらに現代では、「あの教会は徹夜祈祷をしてリバイバルが起こった。だから私たちも同じようにすれば必ず教会は成長する。」と考えることがあります。しかし、それも自動販売機的信仰です。コインを入れれば必ず商品が出てくるように、「これをすれば必ず神様はこうしてくださる」と考えることは、神様を人格を持った主ではなく、自分の願いをかなえる装置のように扱ってしまう危険があります。
もしそのような考えで徹夜祈祷会を開き、期待した結果が得られなかったなら、「神様は約束を守ってくださらなかった」と不満を抱くでしょう。しかし、神様には神様の時があります。神様には神様の方法があります。神様には神様の計画があります。確かに、神様には報いてくださる約束はあります。しかし、その報いの方法も、時も、大きさも、すべて神様の主権の中にあります。私たちが要求するものではありません。
だから信仰生活は取引ではなく、信頼です。私たちは、「神様、私はこれだけしました。」ではなく、「神様、あなたはいつも恵み深いお方です」という信仰で歩む者でいてください。神様と取引をすれば、与えられるのは、最初の労働者のように決められた分だけです。しかし、神様を信頼すれば、与えられるのは、後から来た労働者のように想像以上のものが与えられます。
② 自分の帳簿を捨てる
最初の労働者は、自分が何をしたかを全部覚えていました。「私たちは一日中労苦と焼けるような暑さを辛抱した」この言葉を見ると、彼らは働いている最中も、自分の苦労や働きを心の中で数え続けていたことが分かります。奉仕をしながらも、神様ではなく、自分自身を見ていたのです。「今日はこれだけ働いた。」「私はあの人より多く奉仕している。」「私は長い間教会を支えてきた。」そして、自分の働きを他人と比較し始めます。すると喜びは消え、嫉妬と不満が生まれます。
悪魔はこの時、「神様は不公平だ。あの人を見なさい。あなたより何もしていないのに祝福されている。」とささやきます。こうして神様から目を離し、人ばかりを見るようになるのです。しかしイエスは、「右の手のしていることを左の手に知らせるな」(マタイ6:3)と言われました。これは、人に見せるなという意味だけではありません。自分自身も、自分の功績を数え続けるなという教えでもあります。
私たちが簿記係のように、自分の奉仕年数、伝道人数、献金額、働きの成果を記録する必要はありません。その帳簿は神様にお任せすればよいのです。神様はすべてをご存じです。私たちは神様の栄光だけを求めれば十分です。何年奉仕したかよりも、神様に喜んでいただけたかを大切にしましょう。
③ 神の恵みだけを喜ぶ
主人は最後に来た人にも一デナリを与えました。その瞬間、最初の労働者の本性が現れました。本来なら、自分も約束どおり一デナリを受け取れたことを感謝すべきでした。しかし彼らは、自分が受けた恵みではなく、他人が受けた恵みばかりを見ました。そして、「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに」と他人を見下し、同時に嫉妬しました。
この姿は、「放蕩息子」のたとえに登場する兄とよく似ています。兄は父の家にずっといました。しかし弟が恵みを受ける姿を見た時、自分も父の愛を受けていたことを忘れ、不満だけを口にしました。神様の恵みを喜べなくなる時、人の心には喜びがなくなります。
だからイエスは、「あとの者は先になり、先の者はあとになる」と言われたのです。神の国では、私たちの計算どおりにはいかないことがあります。思いもよらない人が大きく用いられることもあります。人生の最後に信仰を持った人が、永遠の命という最高の恵みを受けることもあります。
ある高齢の方が、「もっと早くイエス様を信じていればよかった。神様なしで生きてきた長い年月が本当にもったいなかった」と言われました。その人は、このたとえを聞いて慰めを受けます。たとえ人生の終わり近くで救われても、神様は永遠の命という同じ恵みを与えてくださるからです。ですから私たちは、人と比較して悲しむ必要はありません。
私たちの目的は、自分が認められることではなく、神様があがめられることです。人が救われることです。イエス様が喜ばれることです。信仰生活の秘訣は、働いた時間を数えることではありません。成果を数えることでもありません。
神様のために働けること自体が恵みであり、救われたことも恵み、今日まで守られてきたことも恵み、そして最後に天国へ迎えられることも、すべて神の恵みなのです。
5。まとめ
パウロはこう告白しました。「神の恵みによって、私は今の私になりました。しかしそれは私ではなく、私にある神の恵みです」(Ⅰコリント15:10)。これが成熟したクリスチャンの姿です。救われたのも恵み。信じ続けられるのも恵み。奉仕できるのも恵み。用いられるのも恵み。天国へ入るのも恵み。
信仰生活は、恵みで始まり、恵みによって支えられ、恵みによって完成します。だから私たちは、「私は何をいただけますか。」ではなく、「神様、今日もあなたのために働けることを感謝します。」この心で歩み続けたいと思います。初めから終わりまで、すべては神の恵みなのです。
6。最後に
女子伝道会の皆さん、今日の説教は「もっと頑張りましょう」というメッセージではありません。むしろ、「これまで忠実に奉仕してくださった皆さんだからこそ、この喜びを失わないでください」というイエスからの励ましです。
神様は、私たちが何年奉仕したか、どれほど多く働いたかだけをご覧になるお方ではありません。神様は、喜んで仕える私たちの心をご覧になります。奉仕は義務ではありません。競争でもありません。神様との取引でもありません。神様に仕えることができること自体が、大きな恵みです。
そして女子伝道会の皆さん一人ひとりが、奉仕の年数や成果を数えるのではなく、神様の恵みを数えながら、初めから終わりまで喜びをもって主に仕え続けることができますように。
私たちの信仰も、奉仕も、救いも、すべては神の恵みに始まり、神の恵みに支えられ、神の恵みによって完成するのです。この恵みを忘れず、最後まで主を喜び、主に仕える私たちとなりましょう。

