20260408死を滅ぼす神様(イザヤ25:6ー9)📺

20260408水曜礼拝

聖書:イザヤ25:6ー9

題目:死を滅ぼす神様

賛美:164、167

説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会

「万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。

また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。

主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。

その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。」

‭‭イザヤ書‬ ‭25‬:‭6‬-‭9‬ 口語訳‬

1。イントロ

 パスカルは「人間は考える葦である」という言葉で有名ですが、このような内容も語っています。「人間は死を癒すことができなかったので、自己を幸福にするために、死を敢えて考えないように工夫した」と。人はどれほど成功しても、どれほど楽しみを手に入れても、心のどこかで「死」を忘れることができない存在なのです。

 実際、私たちは普段は死のことを考えないようにして生きています。忙しさの中で紛らわせたり、楽しみの中で忘れようとしたりします。しかし、ふとした瞬間に「自分もいつか必ず死ぬ」という現実に気付かされます。だからこそ人は、健康に気をつけ、長生きしようとし、死を遠ざけようとします。しかし、どれだけ努力しても、誰一人として死から逃れることはできません。人は死を避けようとしますが、死そのものを消すことはできないのです。

 しかし聖書は驚くべきことを語ります。人は死を恐れて生きますが、神様はその「死」そのものを滅ぼされるお方である、ということです。私たちに必要なのは、死を考えないようにするための工夫ではなく、死を滅ぼされるお方がいるという事実ではないでしょうか?

2。本文解説

①背景

 25章は1−5節と、6−12節で分けられます。前半は、イスラエルを苦しめていた国々が滅ぼされ、神様による救いが訪れることを喜び、感謝するイザヤの歌です。イスラエルは、アッシリアなどの大国によって苦しみを受けていました。そしてそれは、自分たちの罪のための裁きでもありました。しかし、その苦しみの中で、「いにしえから定められた神のご計画が、真実をもって行われた」と告白しています。

 そして後半は、最終的に神がすべてを回復されるという預言です。それはただアッシリアなどの大国からイスラエルが救われるという話に終わりません。「アッシリアからの解放」という歴史的な救いを超えて、「死からの解放」という究極の救いへと視点が上がっています。「死んだら終わりではなく、死そのものが終わる」という希望がここにはあります。これは旧約聖書における復活信仰の原型とも言えるものであり、やがて イエスキリストの復活によって現実となるのです。

②6節

 「万軍の主はこの山で、すべての民のために祝宴を設けられる」とあります。「この山」とはシオン、すなわち神の臨在の場所を意味します。そして「祝宴」とは、救いの完成、喜びの満ちあふれる状態を表しています。ここで特に重要なのは、「すべての民のために」と語られている点です。神の救いはイスラエルだけでなく、すべての人に開かれているのです。

 主イエスもまた、神の国を語るときに「宴」という表現をよく用いられました。最後の晩餐、婚宴のたとえ、そして復活後に弟子たちと食事をされたことなど、食卓は神との交わりの象徴です。復活とは単に命が戻ることではなく、神様との関係が回復されることです。教会の礼拝や聖餐、食事もまた、この神の食卓に招かれていることのしるしです。復活祭は、まさにこの「神の宴に招かれた喜び」を祝う日なのです。

③7節

 「すべての民の上を覆っている覆いを取り除かれる」とあります。この「覆い」とは、無知や罪、そして死の恐れによって、神が見えなくなっている状態を意味します。人間は本来、この覆いに包まれており、真理を正しく見ることができません。その覆いが取り除かれて神様を見ることができるのです。

 そしてこの覆いを取り除いてくださるお方がイエスキリストです。十字架によって神様との隔たりを取り除き、復活によって真理を明らかにされました。使徒パウロも、「キリストにあって覆いが取り除かれる」と語っています。しかしイエスキリストという福音(良い知らせ)によって、私たちは見えるようになるのです。復活とは、単に死に勝つ出来事ではなく、「人生の真実が見えるようになる出来事」でもあるのです。

④8節

 「主はとこしえに死を滅ぼし、全ての顔から涙をぬぐい」とあります。ここには神の救いの核心が語られています。まず「死を滅ぼす」とは、死の支配そのものが終わることを意味します。また「涙をぬぐう」とは、すべての悲しみが完全に慰められることです。そして「はずかしめを全地の上から取り除く」とあります。これは罪と恥からの完全な解放を意味します。神の救いは部分的なものではなく、完全な回復なのです。

 この約束は、イエスキリストの十字架と復活によって成就しました。主は確かに死なれました。しかし復活されました。それゆえ、死はもはや終わりではなくなったのです。使徒パウロは「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか」と宣言しました。私たちは死を恐れる必要はありません。涙もまた無意味ではありません。なぜなら神が最終的に、そのすべてをぬぐい取ってくださるからです。復活とは、「死の敗北宣言」なのです。

⑤9節

 「その日、人は言う、『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ』」とあります。ここには、救われた者たちの信仰の告白が記されています。この告白は、ただ神様を見て初めて信じた人々の言葉ではなく、苦しみの中にあっても神の約束を信じ、待ち望んできた人々の喜びの叫びです。彼らはすぐに結果が見えたから信じたのではありません。見えない中でも神を信頼し続け、「この方こそ私たちの神である」と告白する日を待ち望んでいたのです。そしてついに、その信仰が現実となる時が来ました。この信仰の姿は、アブラハムをはじめとする旧約の信仰者たちにも見られます。彼らは約束の成就をすべて見たわけではありませんが、それでも神を信じ、待ち望み続けました。

 私たちもまた同じです。信仰とは、目に見える結果によって左右されるものではなく、神ご自身を信頼し、約束を待ち望み続けることです。時には祈りがすぐに答えられないように思えることもあります。しかしその中で、「それでも神は救ってくださる」と信じて待つのが信仰です。

3。適用

 今日の本文から皆様に伝えたいのは、人は死によって滅びることを恐れるが、神様は死そのものを滅ぼすお方だ、ということです。私たちは神様を信じていながらも、どこかで「死は避けられないもの」「最終的にはすべてが終わるもの」と考えながら生きています。しかし聖書は、その常識を根本から覆します。神様は、ただ私たちを死から守るお方ではなく、その死そのものを終わらせるお方なのです。

 そのことを、パウロも「「最後の敵として滅ぼされるのが、死である」と宣言しています(1コリント15:26)。死は避けられない運命ではなく、やがて滅ぼされる“敵”なのです。その希望はイエスキリストが来る前から、今日のイザヤ25章の時から約束されていて、そしてその勝利はイエスキリストの十字架と復活によって、明らかにされました。パウロだけでなく、私たちもすでに「死が滅ぼされる」最初の1ページを、イエスキリストを通して見ているのです。

 しかも今日の本文は単なる教えではありません。神様は、すべての民を祝宴に招き、覆いを取り除き、涙をぬぐい取ると語られます。つまり、死が滅ぼされるとは、単に命が続くということではなく、神との完全な交わりが回復されることを意味しているのです。私たちは死の先に素晴らしい交わりが待っているのです。

4。まとめ

 私たちは何を待ち望んでいるでしょうか。この世の結果や成功でしょうか。それとも神ご自身でしょうか。神様の救いは、「約束を待ち望む信仰」と深く結びついています。この世の結果や成功中心にすると、私たちはイスラエルのように神様から離れてしまいます。そして死の存在を大きく感じるようになります。どうか、イザヤのように神様を中心に、福音を中心に心を合わせてください。そして、「見よ、これは私たちの神である。私たちは彼を待ち望んだ。彼は私たちを救われる。私たちはその救を喜び楽しもう」と声をあげて賛美できる日を待ち望みましょう。

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