20251210刺し通されるメシア(ゼカリヤ12:10)

20251210水曜礼拝

聖書:ゼカリヤ12:10
題目:刺し通されるメシア
賛美:119、120
説教:高曜翰 牧師

場所:大阪中央教会


聖書朗読(ゼカリヤ12:10)

「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」


Ⅰ.他人事から当事者へ

まず、ある一つの話を通して考えてみたいと思います。

ある大学生の娘は、いつもヨレヨレのTシャツを着ている父親を嫌っていました。だらしない服装を見て、「どうして新しい服を買わないのか」と何度も注意しましたが、父親は変わりませんでした。やがて娘は、「もっとかっこいい父親がよかった」と言い、父を無視するようになり、卒業後は家を出てしまいました。

しかし後になって、娘はある事実を知ります。父親は、娘の学費を貯めるために、自分の服を買うことを我慢していたのです。

その時、娘の父親に対する見方は大きく変わりました。それまで父の服装は「他人事」のように見えていましたが、それが実は「自分のため」であったことに気づいたのです。その結果、父と娘の関係は回復し、家庭に平和が戻りました。


Ⅱ.ゼカリヤ書12章の理解

① 全体の流れ

ゼカリヤ書12章では、まず神が創造主であり守護者として、弱いエルサレムを守ることを宣言されます(12:1–3)。続いて、周辺諸国に対する裁きとエルサレムの救いが語られます(12:4–9)。これは外的な救いです。

そして10節以降では、戦いの中で「刺し通された者」を見て、人々が深く悲しむ姿が描かれます。これは内的な救いを表しています。


② 「刺し通した者」とは誰か

ここで重要なのは、「刺した者」ではなく「刺し通した者」と表現されている点です。これはより残酷で、深い傷を意味する言葉です。

また「刺し通された者」と言われていないのは、敵によってではなく、「自分たちが刺し通した者」を見ているからです。つまり、人々は敵のせいではなく、自分たちの不従順によって指導者が倒れたことを認めるのです。

これはやがて、メシア預言として明らかになります。ローマ兵でも、ピラトでも、ユダヤ人指導者でもなく、最終的には「私たち自身がメシアを刺し通した」という事実に向き合うことになるのです。


③ 深い悲しみの表現

聖書はその悲しみを、「ひとり子のために嘆くように」と表現しています。ひとり子とは、希望であり、未来であり、誇りであり、代わりのいない存在です。そのひとり子を失う悲しみは、大声で泣き叫ぶような、外にあふれ出る深い悲しみです。

さらに「初子のために悲しむように」とも語られています。初子は家の後継者であり、祝福の象徴です。その喪失は、心の奥深くでうめくような、内側に沈む苦しみを伴います。それは個人の悲しみであると同時に、家全体の未来を失うような悲しみです。


Ⅲ.適用 ― 傷口の意味

① 刺し通された姿を忘れない

私たちは、十字架をどこか「他人事」として見てしまうことがあります。しかし、刺し通された傷口は、私たちに強い現実を突きつけます。

事故現場も、処理前と処理後では受ける印象が全く違います。また、屠殺場で見る肉と、スーパーで売られている肉では感じ方が異なります。それと同じように、傷口を見ることで、十字架は他人事ではなく「自分の問題」として迫ってくるのです。


② 自分が刺し通したことを認める

「イエスも大変だっただろう」「自分ならそんなことはしない」と考えるのではありません。そうではなく、「自分の罪のためにイエスが死なれた」ということは、「自分が刺し通した」という事実を意味します。

私たちの中にある嫉妬、無関心、高慢、小さな言葉――それらが人を傷つけ、最終的にはイエスを刺し通したのです。この事実を受け入れることが大切です。


③ その傷は愛のしるしである

しかし、その刺し通された傷は、ただの裁きのしるしではありません。それは愛のしるしです。

人々は「ひとり子」「初子」を失うように悲しみました。これは深い愛の表現です。もし愛がなければ、その傷を見た時、恐れや拒絶しか生まれません。

しかしメシアは、私たちのためにその傷を受けることを選ばれました。その傷は、私たちを愛しているという証しなのです。


④ 聖霊によって受け入れる

では、どうすればこの事実を受け入れることができるのでしょうか。

聖書は「恵みと祈りの霊を注ぐ」と語っています。これは聖霊の働きを意味します。私たちは単に言葉で理解するのではなく、聖霊によってこの真理を受け入れることができます。

だからこそ、自分の感情や理屈ではなく、聖霊に従う心を求める必要があります。


⑤ 真の平和とは何か

多くの人は平和を求めます。しかし平和は外側の問題だけではなく、内側の問題が解決されなければなりません。

自分が刺し通したにもかかわらず、それでも自分を愛してくださる方がいる――その事実を知る時、本当の平和が与えられます。

その方こそ、クリスマスに生まれたイエス・キリストです。


Ⅳ.まとめ

第一に、私たちは「刺し通されたメシア」を見る時、救いが他人事ではなく、「自分が刺した」という当事者の問題であることに気づかされます。

第二に、その傷は裁きではなく、私たちを見捨てずに身代わりとなってくださった神の深い愛のしるしです。

第三に、聖霊が注がれる時、私たちはその愛を受け入れ、心の内側から真の平和へと導かれます。


「刺し通されたメシア」を覚えつつ、クリスマスを迎えましょう。 

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